浅い河

Tales,小説ユリエス

4

「エステルおねえちゃん!」
 大きな声に、エステリーゼははっと顔を上げた。陽光を受けた水面が、複雑な形に乱反射している。
 声の主を捜すと、くるぶしあたりまでしかない小川に入った子どもたちの一人が、手にもった何かを掲げていた。
「カニ! カニさん捕まえたよー!」
「すごいです! 後で見せて下さいね」
「うん!」
 石をひっくり返しては小魚などを追い、きゃあきゃあとはしゃいでいる子ども達を眺めながら、エステルは手元のノートに目を落とした。
 ペンを持ってはいるものの、ノートは白紙のままだ。ひさしぶりにハルルに戻って来て、仲良しの子ども達が川遊びをするというので外に出てきたものの、どうしても思考は上の空になってしまう。
 木漏れ日が踊る下草をそっと撫でて、エステリーゼは両手をついて上体を後ろに軽く倒した。風に揺れる葉の隙間から、青い空がのぞいては消える。
 明るい笑い声が響く幸せそうな光景に視線を戻して、彼女はため息をついた。
 実は川遊びなど、生まれてこのかたしたことがないエステリーゼだ。子ども達に誘われたものの、スカートのままで川に入るのは躊躇われ、見守りながら何か思いつかないかとノートとペンを構えたのだが、絵本になりそうな言葉は何一つ思い浮かんでこない。
 浮かぶのは、あの黒い瞳だけだ。時に意地悪に、皮肉げに、けれどもとびきり優しくまばたく、あの瞳。
 きゅ、と唇を軽く噛んだエステリーゼは、何かを書き散らしてしまう前にノートを閉じた。言葉になんかしない。文字に残したりなど、もっと出来ない。
 そう、これは決して表に出してはいけないのだ。知られてしまえば、今の関係は崩れてしまう。この想いは、彼に望まれてはいないのだから。
 思考がマイナスに傾いていくのを、エステリーゼは頭をふって食い止めた。
「おねーちゃん、冷たくて気持ちいいよ! 靴脱いで、ちょっとスカート上げておいでよ」
 元気な声に呼ばれ、エステリーゼは苦笑しながら手で駄目ですと示す。
「入ったら濡れちゃいます」
「浅いから大丈夫だよ! 水かけたりしないから」
「お魚がいーっぱいなの、入らないと見られないよ。おいでよ!」
「ちょっと濡れてもすぐ着替えたら風邪なんてひかないって!」
 口々に呼ばわれて、彼女は小さく吹き出した。気分が落ち込んでいるのを見透かされているのだろうか。
 元気な声に誘われて、あんなにも重かった気持ちが少しだけ軽くなる。今日は汗ばむほどのいいお天気だから、冷たい川に足をつけたらきっと気持ちいいだろう。
 きょろきょろとあたりを見渡す。子ども達の母親が数人、世間話をしているくらいで、他に人目はない。
 浅いとは言え、川だ。きっと川底は藻や水で滑りやすくなっているだろうし、転んでしまったりしたら大変だ。何よりスカートをたくしあげて水遊びをするなど、エステリーゼを培った淑女教育はもってのほかだと断言している。
 けれど、ここはザーフィアス城ではない。教育係もお作法の教師もいない。見られてはいけない紳士もいない。
 少しだけ。そう、ちょっとだけなら大丈夫だろう。
 エステリーゼは川縁まで歩くと革靴を脱いで、靴下を折りたたむとその中にしまった。そうっと裸足のつま先をのばしてみる。
「つめた……っ」
 二、三度水面をつついてみてから、思い切ってとぷんと足を水中に沈めてみた。ごつごつした石の上にあっさりと足がつく。
 スカートが濡れないように、心持ちつまみあげるようにして、バランスをとりながらエステリーゼは慎重に足を進めた。子ども達が待ち受けている場所にたどり着くと、大歓迎を受ける。
 カニを見せてもらい、ちょっとした深みに佇んでいた小魚の群れがさっと散って泳ぐ様をのぞき込み、エステリーゼは子ども達と声を上げて笑った。
「おねえちゃん、ほら、川の底の砂がきらきら光ってるんだよ!」
「きっと石英ですね」
「セキエイ?」
 川底に負けず劣らず目を輝かせて尋ねてくる子どもに、エステリーゼは笑いかけた。
「きらきら光る石の仲間なんです。細かくなって、砂の中に混ざってるんじゃないでしょうか」
「へー! じゃあ、あのお魚はわかる?」
「うーん、小さすぎてちょっと……」
「ねえねえおねえちゃん、じゃあこの赤い石は?」
「粘土から出来た石だと思います。家に図鑑がありますから――」
 とって来ましょうか、と家の方に顔を上げたエステリーゼは硬直した。
 小川にかかっている橋のたもとに、黒ずくめの青年と、隻眼の大型犬が立っている。一人と一匹は仲良く並んで、エステリーゼを見ていた。
「よう」
 ごく気軽な様子で、ユーリが手をあげる。途端、エステリーゼの石化は解けた。
「っきゃああああ!」
 叫び声に、子どもたちが驚いてエステリーゼを見上げる。足下の魚たちも逃げてしまったが、叫び声を上げた当人はそれどころではなかった。
「ユ、ユ、ユ」
「……なんか傷付く反応だな」
「ど、どうしてここにっ? いえ、その、回れ右ですユーリ!」
「は?」
「いいから後ろ向いて下さい!」
 有無を言わせぬ気迫に押されたのか、言われたとおりにユーリが背中を見せる。それに習ってラピードもまた方向転換をした。
 その間にあたふたと、けれども転んでしまわないように細心の注意を払いながらエステリーゼは川から上がって靴のところまで戻る。まだ濡れたままだったが、てのひらでできるだけ雫を払って靴下を履き、靴を履いていると、「もういいかー?」と向こう岸から問いかけられる。
 大丈夫ですと答えるべきか、まだですと答えるべきか、エステリーゼが迷っている間に、「あと十秒」と区切られてしまった。慌てて超特急で靴を履き終え、カウントダウンが終わるまでにしゃんと立つ。
「ゼロ」
 のんびりとした調子で十秒を終えたユーリが振り向く。そして、彼はぷっと吹き出した。
「顔真っ赤」
「こっこれはユーリが悪いんですよ! いきなり現れたりするからっ」
「川遊び見られたくらいで、そんな恥ずかしがることねぇよ。なあラピード?」
「ワフ」
 相棒に同意を示されたユーリが、自信たっぷりに「な?」と片目をつぶってみせる。うううう、と言葉に詰まりながら、エステリーゼはスカートを精一杯つま先に向かって引っ張った。
 と、自分に注がれている子ども達の視線に気がついて、エステリーゼは慌てた。なんでもないと両手を振ってみせ、あたふたとノートとペンをまとめる。
「ごめんなさい、お友達が訪ねて来たので、また遊んで下さいね」
「うん、また明日ね!」
「図鑑見せてねー!」
 バイバイ、と手を振る子ども達に手を振り返していると、橋を渡ってきたユーリがエステリーゼの隣に立った。その顔には、慌てている彼女を面白がるような笑みが浮かんでいる。
「まだ遊んでても良かったのに」
「ユーリは意地悪ですっ」
 ぷいとそっぽを向いてから、エステリーゼはラピードに笑いかけた。
「久しぶりですね、ラピード。ちょうどよかったです、美味しいお肉をもらったんですよ」
「ちょっと待て、オレには?」
「意地悪な人にはありませんっ」
「川で遊んでるのを見てたのはラピードも一緒だぞ」
「ラピードはユーリみたいにからかったりしませんっ。ラピードの方がよっぽど紳士です」
「はっはっは、褒められたぞラピード」
「ユーリは褒めてません!」
 ムキになるエステリーゼの頭をぽんぽんと叩くと、ユーリは笑いながら川沿いの道を目で指し示した。
「いい天気だしちょっと散歩しないか? そのうち靴も乾くだろうし」
「やっぱり意地悪です」
 ふくれながらも、彼が歩き出したのでエステリーゼも荷物を両手で抱えて後に続いた。花の季節が終わったハルルの樹は、青々とした葉を茂らせている。
 気恥ずかしさと困惑でしばらく自分のつま先をにらみつけるように黙って歩いていたエステリーゼは、ユーリが何も言わないことを不思議に思って顔を上げてみた。
 黒い瞳は前を見据えている。それに少し安心して、彼女は口を開いた。
「……そういえば、どうしてハルルに? お仕事は終わったんです?」
「ああ、割とあっさりな。まだ帝都にいると思ってたのにすれ違ったって、リタが残念がってたぞ」
 ユーリが何気なく告げたのであろう言葉に、エステリーゼは罪悪感を覚えずには居られなかった。騎士団を通しての依頼だったから、きっとユーリは仕事が終われば帝都に戻ってくる。そう思ったからこそ、予定を前倒しにしてハルルに来たのだ。
「――私も、残念です。今度会ったらうんとリタに謝ります」
 堰を切ったように次から次へと持ち込まれる見合い話と、ユーリから逃げてここに来たのに、どうしてユーリはハルルに来たのだろう。エステリーゼは不思議に思ったが、そのまま問いかけるのは躊躇われた。
 ユーリと居ると、封じ込めたはずの気持ちがあふれだしてしまいそうになる。
 何気なく笑いかけてくれるたびに、何かを押し殺してまっすぐに立っている横顔に気付くたびに、どうしたって心は騒ぐ。
 彼の側にいてもいいのは、仲間のエステルだ。そうでないエステルは、彼の側には居られない。
 そう気付いてしまって、それが怖くて、ハルルに戻ったのだ。ノートを持った手に力を込めた時、「エステル」と名を呼ばれて彼女は反射的に顔を上げた。
 黒い瞳とまともにぶつかってしまい、うろたえてしまいそうになるのを必死にこらえて返事をしたエステリーゼに、ユーリは静かに口を開いた。
「結婚話が山ほど来てるんだってな」
 足が止まった。
 まばたくことも出来ずに、ただユーリを見上げる。どうして、と尋ねかけて、エステリーゼはその言葉ごと息を呑み込んだ。
 動揺してはいけない。なんてことはないのだと、そんな話題はこれからになんの関係もないのだと、示さなければならない。今までと同じ、大切な仲間のひとりであるために。
「どうするんだ?」
 必死で言葉を探していたのにそう続けられてしまい、エステリーゼはため息をついた。
 ユーリには嘘をつきたくないのが彼女の本心であったし、もともと嘘をつくのは苦手なのだ。
「迷っています。でも……全部、お断りすると思います」
 話している間にだんだんと下がって地面に落ちていた視界に、灰色の長靴が入ってきた。ユーリのものだ。
「そういう出会いでも良い方はいらっしゃるでしょうし、結婚してみたら幸せになれるのかもしれません。でもやっぱり、立場や安定を得る為の結婚はしたくないんです。権力争いの道具になるのも、いやです。だから」
「そっか。安心した」
 エステリーゼは耳を疑った。
「……え?」
 もう一度顔を上げる。いつもの斜めに構えた飄々とした笑みが、ユーリの口元に浮かんでいない。
 頭の中を疑問符でいっぱいにしながら、エステリーゼはぽかんと彼を見つめていた。
 だって、エステリーゼが縁談を断ることが、ユーリの安心につながる理由がわからない。
「実は、全部断ってくれねぇかって頼みに来たんだ」
「え」
 さらに投下された言葉の爆弾に、疑問符すら頭から吹き飛ばされた。真っ白に塗りつぶされた思考回路の片隅で、何かとんでもない事態が発生していることだけを把握する。
 口をぱくぱくさせているエステリーゼにふっと笑いかけたユーリが、傍らに居る相棒に視線を移した。
「悪い、ラピード。ちょっと外してくれ」
「ワゥ」
 一声応じ、特徴的な鈎尻尾を揺らしてゆったりとラピードが歩いていく。「サンキュ」とそれを見送ったユーリは、エステリーゼに向き直った。
「今から勘違い野郎上等な、とんでもなく身勝手なことを言う。後でいくらでもひっぱたいてくれて構わないから、とりあえず最後まで聞いてくれねぇか」
 真剣な口調に、まっすぐ注がれる眼差しに、エステリーゼはゆるみかけていた荷物を持つ指に力を入れ直した。
 大きく息を吸って、吐いて、ともすれば震えそうになる呼吸を整え、うなずく。
「はい」
「タルカロンに行く前の夜に、オレともずっと一緒にいられるって言ってくれたの、覚えてるか?」
 エステリーゼはまばたきをした。
 それは、ユーリと星空を見上げながら、精一杯の勇気を振り絞って告げた言葉。伝えられたことが嬉しくて、でもそれ以上は気付かないでと願い続けてきた言葉。
「……覚えててくれたんです?」
「今でも有効?」
「はい」
 質問に質問で返されたものの、彼女は素直にうなずいた。そっか、と呟いたユーリが、右手で後ろ頭を軽くかく。
 一度ためらったようにその唇は閉じられ、けれどまっすぐにエステリーゼを見つめたまま、ユーリは再び口を開いた。
「あれを、だな。これから先の人生ずっと、みんなのおまけじゃなくて、オレとでお願いしたい、予定」
 これから先ずっと。
 みんなと一緒にではなく、ユーリと一緒に。
 エステリーゼはまんまるに翠の瞳を見開いた。
 なんだろうこれは。白昼夢だろうか。なにかの幻惑だろうか。
 呆然としたまま、けれど付け加えられた単語が引っかかり、彼女はそれをおうむ返しに口にした。
「――よてい?」
「ああ」
 苦笑して、ユーリは足下に目を落とした。小川が流れ、川縁には野の花が咲き乱れている。
「この川を渡るのと似てるのかもな。濡れても滑っても転んでもいいと思い切れたら、簡単に渡れる。おまえも、手を伸ばせば届くところに居る。けれど、手を伸ばすだけの覚悟が、オレにはまだ出来てない」
 上半身を折って黄色い花を一輪摘み取ったユーリが、手持ちぶさたそうに手の中でくるりと回す。
 それを見つめながら、エステリーゼはただユーリの言葉を聞き漏らすまいとするだけで精一杯だった。
「おまえを幸せにするとも、絶対に泣かせないとも、まだ約束できねぇんだ。オレにそんな資格があるのか」
「資格だなんて!」
 とっさに遮って、エステリーゼはユーリの方へ一歩踏み出した。
「どうしてそんな風に言うんです? わたしはユーリが優しいことも、頑張ってきたことも、今も頑張っていることも知っています!」
 どうしてそんなことを言うのだろう。ユーリがずっと苦しんでいることは知っている。罪の意識を抱えたまま、それでも前へ進もうとあがいていることも知っている。
 ユーリの力になりたいのに、彼が抱え込んでいるものには容易に触れられなくて、そんな自分が悔しくて情けなかった。辛さを分けて欲しいと願ってもそれを告げることも出来ず、ユーリが許してくれる自信もなくて、何もできない事が腹立たしくてもそばにも居られなくなることが怖くて、しかたがないと目を逸らした。
 そうして音もなく開いていく距離に竦んで、逃げ出した。だけど。
「ユーリになら泣かされたっていいんです、わたしだけを幸せにしてくださいなんて言いません! ユーリだって幸せにならなくちゃだめですっ」
 資格がないと言うなら、それは自分の方だ。自分のことでせいいっぱいのくせに、ユーリのそばにいたくて、嬉しいことも悲しいことも、真っ先にユーリと分かち合いたいと望んでしまう。ユーリにもそうして欲しいと願ってしまう。
「なのに資格だなんて、そんなこと――」
「エステル」
 涙声になってしまった訴えは、柔らかな声で遮られた。熱くなった目をしばたたくと、にじんだ視界が輪郭を取り戻す。
「その先は、今はおあずけにしといて」
 ほろ苦く微笑んだユーリが、黄色い花を持った手をつとエステリーゼの方に伸ばして、花を耳の上に挿した。
「ありがとな。だけど情けねぇことに、おまえを失いたくないってのが、今のオレが言える限界なんだ」
「――ユーリ」
 とくん、と跳ねた心臓をかばうように、エステリーゼはノートを抱えた腕に力を込めた。
 限界だなんてとんでもない。そんなことは全然ない。
 こんなふうにユーリが自分を望んでくれることを、こっそり願ったことなんて数え切れないくらいある。我に返ってはため息をついて、頭から布団をかぶって無理矢理に押し込めてきた。
「ちゃんと言う覚悟も決められねぇのに、オレの手の届かない、知らないところに行って欲しくない。他のヤツには渡したくない。――とんでもねぇワガママだろ?」
 少女は首を横に振った。ユーリが髪に挿してくれた花が落ちないように、そっと。
 それが我が儘なら、自分はただの欲張りだ。けれど今は何か言うより先に涙がこぼれてしまいそうで、ただエステリーゼはユーリを見上げる。
「いろんなこととか、オレ自身にケリをつけてぇんだ。そうしたら、胸張って言えると思う。だから、こんな野郎でもいいって思ってくれるなら、待っててくれるとありがたいんだけど」
 どうだ、というように首を傾げるユーリに、エステリーゼはうなずいた。一度、二度。
 ノートを胸に抱えて、彼女は身を乗り出した。
「待ちます。十年でも、二十年でも三十年でも、ずっと待ちます。待ってますから」
「いくらなんでも、そんなに待たせるつもりはないんだけどな」
 信用ねぇなぁと困ったようにユーリが頭をかく。その口ぶりに、エステリーゼは小さく吹き出した。
 笑ったはずなのに、どうしてか涙がこぼれる。それをぬぐいながら、エステリーゼは力いっぱい微笑んだ。
「実はわたしも、少しでも早い方が嬉しいです。ユーリに早く言いたいです。たくさんたくさん、聞いて欲しいことがあるんです」
 あの日、手を取ってくれたことがどれほど嬉しかったか。叱ってくれたことがどんなにありがたかったか。受け止めてくれたことが、ユーリの元に戻ってこられたことが、どんなに幸せだったか。行方がわからなくなってしまったことが、どれだけ辛かったか。
 これからを約束してくれたことが、どんなに世界を明るくしてくれたか。
 見つめる先で、ユーリが笑った。
「そりゃ楽しみだ。早く聞きたくなってきたな」
「はい! 覚悟しててくださいね」
 いつか、その日が来たら、今度はノートなんかではなく、この人を腕いっぱいに抱きしめよう。笑顔で応えられる自分になろう。
 ユーリにうながされてラピードのもとへと一緒に歩き出しながら、エステリーゼはひっそりと、心の内でそう誓った。

 

―了―