浅い河
2
騎士団長主席副官の後ろをついて歩きながら、ユーリ・ローウェルはやれやれと肩をすくめた。
以前に比べれば格段に軟化しているどころか、必要以上に丁重な態度になったとはいえ、それでも生真面目を絵に描いて額に飾ったようなこの女性が彼を見る目は、常に厳しい。
襟足で切りそろえられた栗色の髪を揺らして立ち止まった彼女は、規則正しいリズムで質素だが重々しい作りの扉をノックした。返事を待ってから、「閣下、お連れいたしました」と彼女が告げる。
「入ってくれ」
中からの返事にしたがって、彼女が扉を開いてくれた。軽い調子で礼を告げてから、ユーリは気負わぬ様子で帝国騎士団団長室へ足を踏み入れる。
「いよう、フレン。おつとめごくろーさん」
「ひさしぶりだね、ユーリ。呼び出したりしてすまない」
かつての騎士団長が身につけていたものよりかは幾分簡素な、それでも一目で他の騎士とは違うことがわかる鎧姿の金髪の青年は、笑顔で幼なじみを出迎えた。
ユーリの背後で静かに扉が閉まる。副官は遠慮してくれたようだ。
書類に走らせていたペンを置くと、ファイルに挟んでフレンは椅子から立ち上がった。軽く首を回してから、黒づくめの幼なじみにソファを勧める。
「まあ、座ってくれ。水しかないけどいいかい?」
「この部屋に酒があったら仰天するね、オレは」
「またそんなことを」
軽口を叩く青年に水を注いだグラスを渡すと、フレンもまた応接用のソファに腰を下ろした。
「ダングレストの方はどうだった?」
落ち着いた様子で話を切り出す幼なじみを、ユーリは半分下ろした瞼の下から見やる。
「ん? それはおっさんから話がきてんじゃねーの」
「レイヴンさんとの連絡と、君が肌で感じてきたものはまた別だろう」
「――けど、本題は別にある」
ユーリが低い声で切り込むと、フレンは軽く目を見張ってから苦笑をこぼした。
「やれやれ。かなわないな、君には」
言いながら、フレンは立ち上がって書棚に歩み寄る。グラスの中身を一息にあおったユーリは、勝手に二杯目を注いでソファの背に腕をもたせかけた。
「お前は腹芸に向いてねぇんだよ。いい加減自覚しろ」
「肝に銘じておくよ。この件を片付けてもらいたい」
ばさりとユーリの前に幾枚かの書類を詰んだフレンが、机の横に備え付けられているラックから丸められている地図の一つを抜き出した。
「君も知っているだろう。カルボクラムを根城に、ギルドの傭兵崩れがあの辺りの行商人や通行人を襲っていた事件の資料だ」
「ギルドを主体に討伐したんじゃなかったっけ? カロルがそんな話してたような」
「残党がガスファロストに逃げ込んだんだ」
長い黒髪を苛立たしげにかいて、ユーリが舌打ちをした。
「厄介なところに……」
「エアルの装置類は動かない。残っていた魔核は全部あの時にネットワークに繋いだと、リタが太鼓判を押してくれたよ。けれど、もともと軍事系に特化した施設だからね。籠もられてしまうと厄介だ」
「で、なんで騎士団長様がその話を持ってんだ?」
「レイヴンさんから君にご指名だ。カロルを連れてジュディスも追って来るそうだ。リタには僕から協力を要請した。近くのエアルクレーネに寄りついでに、ガスファロストの機材をいくつか運び出したいそうだよ」
「手回しのいいことで」
顔をしかめて、ユーリは呆れたように息をついた。
「ひさしぶりの帝都だってのに、まーたトルビキアへとんぼ帰りとはね」
「頼んだよ。調べのついている人員構成や、武器調達ルートはこっちにまとめてある」
「めんどくさいのはお前やおっさんに任せる。とっつかまえて引き渡せばいいんだな?」
きわめて簡潔にまとめたユーリが顔を上げるのと同時に、扉がノックされる。
「団長! 申し訳ありません、至急お伝えしたいことが」
「入ってくれ」
部下の声に応じたフレンが立ち上がり、ユーリも腰を上げた。
「んじゃ、ジュディ達を待つとするわ。下町の部屋に帰ってるから、連絡はそっちにしてくれ」
「わかった」
ひらひらと手を振って出て行こうとする青年を、副官を招き入れながらフレンは呼び止めた。肩越しに振り向いたユーリに、淡々とした調子で告げる。
「エステリーゼ様に、顔を見せてさしあげてくれないか。最近少しお疲れのご様子なんだ」
ユーリは片眉を跳ね上げた。だが、視線の先の幼なじみの表情は微動だにしない。いつもの真面目で堅物な、真摯な瞳。
揺らぎもしないそれに吐息を殺して、ユーリは面倒くさげに右手を軽く振った。
「また根詰めてんのかよ、ったく。しゃーねぇなぁ、あのお姫様は」
「頼んだ」
言葉を重ねてくるフレンに肩越しに手をあげて見せ、彼は廊下へと出た。すっかり歩き慣れてしまった城内を、奥の方へと進んで行く。
時折いぶかしげな視線が衛兵から注がれるが、皇帝陛下直々に渡された皇帝家紋章入りのロケットを彼がかざして見せると、慌てた敬礼が返ってくる。
それに答えるでもなく歩き続ける彼の表情からは、先ほどまでの皮肉げな、何かを面白がっているような笑みは消えていた。
「嘘も下手なんだよ、おまえは……」
先ほどまで相対していた親友に向かって口の中でユーリは呟く。
わざわざ彼女に会っていけと念を押す理由が、『疲れている』だけのはずがない。何を狙って回りくどいことをしているのだろうか。言われずとも、城までやってきたならエステリーゼの顔くらい見て帰るに決まっているのだから。
一体彼女に何があったのだろう。胸の底で、ざらりと何かが不快に動く。
確たる根拠もないが、こういう嫌な感覚が馬鹿にできないことくらい、ユーリは知っていた。けれど、今更フレンやあの皇帝陛下が、みすみすエステリーゼを危険に晒すわけがない。それなのに、この重苦しさはなんだ。
嫌な予感を振り切るように、ユーリは豪奢な廊下を進み続けた。
何度かくぐったことのある、凝った意匠が施されている扉の前に立っていた女官と目が合う。すぐさま、文句のつけようもないしとやかな仕草で彼女が軽く頭を下げた。
「仕事中に邪魔するよ。お姫様はいるかい?」
「はい、少々お待ちください。――姫様、ユーリ殿がいらっしゃいました」
女官が室内へと声を掛けたとたんに、扉の向こうでがたんと音がする。間髪入れず軽い足音が急いで近づいてくるのに、ユーリは苦笑した。
女官が扉を開けるよりも早く、内側から扉が開かれる。貴婦人らしいドレスに身を包んだエステリーゼは、ユーリを見つけるなりぱっと顔を輝かせた。
「ユーリ! おひさしぶりです、いつザーフィアスに?」
明るい声の調子に、ユーリもつられて笑みを浮かべてしまう。
「今日。部屋に帰ったらフレンから呼び出しが待っててな、ゆっくりする間もありゃしねぇ」
「お疲れさまです。あ、どうぞ入って下さい、ちょうどお茶にしようと思ってたんです。フルーツタルトが美味しそうなんですよ」
「お、ナイスタイミング」
女官に、用意は自分でやりますからと言い置いたエステリーゼが大きく扉を開いて、「どうぞ」と促す。
「おじゃましますっと」
広い室内には、以前より棚と机が増えている。読書好きのエステリーゼらしく相変わらず書物も積み上げられているが、表だって政務にも携わるようになったからだろう、資料や地図、手紙類などが整頓されてはいるもののかなりの存在感を示していた。
「こりゃまたずいぶん忙しそうだな」
勧められるよりも早くさっさとテーブルについて、タルトの取り皿の準備をはじめるユーリに、エステリーゼはくすくす笑いながらティーポットを取り上げた。
「今、一つ法制案の大詰めがあって、それで……。散らかっててすみません。でも、そろそろまとまりそうなんです」
「ハルルの方は? 空けっぱなしか?」
「リタとジュディスとパティに合い鍵を渡してあるんです。私が居ても居なくても、拠点代わりに使って下さいって。人が居た方が、家は傷まないって聞きますし」
ユーリの前に砂糖壺とお茶を置いたエステリーゼが椅子に腰掛ける。
絵本作家になって、子どもたちに喜んでもらえる作品を生み出したい。それがエステリーゼがあの旅の間に抱いた夢だ。それと同時に皇族としての責務を果たし、魔導器を失った人々の生活をより良い方向へ導く手助けをするため、彼女は二つの場所で暮らしている。
大変だろうと思うのだが、彼女はやり甲斐があると言って嬉しそうに笑っていた。ずっと軟禁され、権力争いの最中で孤立させられて生きてきたエステリーゼだ。彼女にとっては、必要とされること、自身が誰かの役に立てることは、この上なく幸せなことなのだろう。
だからエステリーゼは多少疲れたりつまづいたりしたところで、そう簡単に弱音を吐くことはないだろうとユーリは踏んでいたし、事実今まではそうだった。もちろん、天才魔道士である皇女様の親友をはじめとする仲間達はしょっちゅう苦言を呈したり外出に連れ出したりもしていたし、ユーリもなるべく城に顔を出しては、他愛ないおしゃべりに付き合ったりしていた。
けれど、いつだってエステリーゼの返事は同じだ。私は大丈夫です、ありがとうございます。そういって、穏やかに笑みを浮かべる。
その彼女にわざわざ『会って行け』とフレンが言った理由が、いまいち分からない。そう思いつつも、ユーリは見た目にも美味しそうなタルトに舌鼓を打った。
「ユーリ、ラピードは一緒じゃないんです?」
どこか残念そうな表情を浮かべて、ユーリの相棒犬が側に居ない理由を尋ねてくるエステリーゼに、ユーリは笑みを浮かべる。
「ああ、あいつの家族に会いに行ったよ。邪魔しちゃ悪いと思ってな」
「ああ! そうですよね、私もラピードの家族に会いたいです。ラピード、会わせてくれるでしょうか」
「今度頼んでみたらいいんじゃねーの?」
「はい、会わせてくださいってお願いしてみます!」
意気込んで答えたエステリーゼだが、ふっとその顔から表情が消えた。不意を衝かれて呆然とした時にも似た、焦点を失った瞳がぼんやりと手にしたティーカップに向けられている。
「……家族……」
形の良い唇がぽつりとそれだけ呟くのに、ユーリは軽く瞬きをした。
家族がどうしたというのだろうか。彼女の家族は既に亡いと聞いている。何か悲しいことでも思い出したのだろうか。
だが、今までエステリーゼが母の思い出を語るときはいつも穏やかな、暖かなものを慈しむような口ぶりだった事を考えると、この反応は少々負の方向に大きすぎる。
「エステル?」
呼びかけると、はっとエステリーゼが顔を上げた。慌てた様子でカップをソーサーに戻した彼女の口元に、笑みが戻る。
「あ、ごめんなさい。せっかくユーリが来てくれてるのに、ぼーっとしちゃいました」
照れたように笑って、エステリーゼはもう一切れ大きめにタルトを切り分け、「お詫びです」とユーリの皿によそう。
「そうです、カロルは元気です? あまり、お城には来てくれませんから」
「ああ、なんかにょきにょき背が伸びてるぜ。ほんとにそろそろリタに追いつきそうだ」
「わあ、会えるのが楽しみです! あ、パティは一ヶ月ほど前にハルルに寄ってくれたんですよ。ユーリがなかなか捕まらないって寂しがってました。たまには時間をつくってあげてくださいね?」
はしゃいだ様子は、明らかに無理をしている。ユーリはフォークを置いて、正面からエステリーゼの翠の瞳を見据えた。
「エステル、どうした? 何かあったのか」
「え」
単刀直入に切り込むと、エステリーゼは言葉に詰まった。困惑の表情はすぐに繕った笑顔に変わる。
「ユーリが心配するような失敗は何もしてません。大丈夫ですよ、これでもちゃんとやってるんですから」
「いや、オレが言いたいのはそういうことでなくてだな」
「本当に、なんでもないんです。大丈夫です」
笑みを顔にはりつけて、言い切った彼女がきゅっと唇を引き結ぶ。
頑固で一度言い出したらなかなか引かないエステリーゼだ。これ以上の力押しは無駄だと悟って、ユーリはため息をついた。
ひらりと右手を振って、椅子の背に体を預ける。
「わかった、エステルは大丈夫だ。けど、大丈夫じゃなくなる前にちゃんと言えよ。オレじゃなくてもいい、フレンでもリタでもジュディでもパティでも」
「ユーリ……」
エステリーゼの瞳が揺らぐ。言葉に迷ったようにしばらく何度か開きかけては閉じられた唇は、ややあって「ありがとうございます」と呟いた。
気を取り直したようにお茶を飲んだ彼女は、先ほどよりは気負いなく微笑む。
「でも本当に大丈夫なんですよ。変な心配させてしまってごめんなさい、気にしないでくださいね」
「はいはい」
笑い返しながらユーリは内心で舌打ちしていた。
エステリーゼは彼に向かって線を引いた。何かを隠すために、悟らせないために。
フレンの懸念をきちんと聞き取ってから彼女に会わなかったことを少しだけ後悔しながら、ユーリが他の話題を探そうとしていると、エステリーゼが唐突に手を打ち合わせた。
「そうです、忘れてました!」
立ち上がると急ぎ足で飾り棚の方へ向かう。何かを取り上げた少女は、椅子には戻らずにユーリの隣に立ってはにかんだ。
「あの、見ても笑わないでくださいね」
「ん?」
首をかしげると、エステリーゼは手に持っていたものをユーリへと差し出した。そのてのひらには、白を基調に、濃緑と淡紫の糸で組まれた飾り房が載っている。
「先日、リタと市に行ったんです。そうしたら、行商の方がお守りの飾り房を作る糸と、作り方を売ってらして。糸の色と、結び目の編み模様でお願い事を示す、だそうです」
「へぇ」
となると、これはエステリーゼが作ったものなのだろう。飾り房といっても、剣につけるような大きなものではなく、人差し指くらいの小振りなものだ。
「小さいのにきれいに出来てるじゃねぇか」
「ちゃんと出来てます?」
「おう。上等上等。こんな細かいのどうやって作るんだ?」
「編み図があるのでなんとか。あの、ユーリ、もらってくれます?」
はい、と差し出された飾り房を反射的に受け取ったユーリは、傍らに立っているエステリーゼを見上げた。
「お仕事の成功と、ユーリの無事をたくさんお願いしておきました。気休めですけど、一緒にいられないとケガを治すこともできませんし、ユーリはすぐに無茶をしますし」
「無理無茶無鉄砲はエステルの専門だろ?」
途端に頬をふくらませる少女に、ユーリは笑いかけて飾り房をそっと握り込んだ。
「ありがとな。使わせてもらう」
ぱっとエステリーゼが微笑む。
「よかった! ユーリ、あんまりお守りとかに頼りそうにありませんし、迷惑だったらどうしようかと思ってたんです」
「まあ、自分で買おうとは思わねぇかな」
続きを口にする前に、ユーリは少し躊躇った。これは言ってもいいことだろうか。だが、少女の眉が少し下がってしまったのを見て、口を開く。
「けど、エステルがオレを心配して作ってくれたモノを、粗末にしたりしねぇよ」
ふわり、とエステリーゼが微笑んだ。
あの旅の間も、何度となくユーリに向けられた微笑みだ。全幅の信頼と親愛をこめたもの。
ユーリの罪を知っても、彼女が絶望を覚えた後も、この微笑みは変わらなかった。
なのに今、同じ微笑みを見ているのに、それが遠い所にあるように思えるのは何故だろう。
「ありがとうございます、ユーリ」
「礼を言ってるのはオレなんだけどな」
苦笑して、ユーリは飾り房を財布の中にしまった。エステリーゼは自分の席に戻って、上機嫌でカップを取り上げる。
「今はラピードの分を作っているんです。奥さんや子どもたちの無事もお願いしようと思って」
「……もしかして、全員分作る気か?」
「はい!」
肩すかしをくらった事実は意図的に無視して、ユーリは「いいんじゃねぇの」と笑いかけ、仲間達の近況に話を移した。
お茶が終わり、再会を約束してからユーリは騎士団長室に戻った。
忠実な副官に短時間だけと人払いを頼んで、フレンに向き直る。背後で扉が閉まる音を確認してから、ユーリは低く問いかけた。
「エステルに何があった」
「僕からは言えない」
フレンは即答した。知らないでも言わないでもなく、言えない、と。
今度ははっきりと舌打ちしたユーリに、フレンは首を振る。
「帝国の機密だとかお偉方の都合だとか、そういったものじゃない。エステリーゼ様が望んでおられないから、僕からは君に言えない」
呆気にとられたように息を呑んだユーリは、次の瞬間眉を跳ね上げた。
「何があったのか言えないのに、エステルには会って行けって? 矛盾してんじゃねーか」
「ああ、矛盾している」
声を荒げるユーリに対して静かに断言して、フレンは一つ息をついた。
「矛盾だとわかっていて、君に頼みたかった。……エステリーゼ様は、君に何もおっしゃらなかったのか」
「大丈夫だ何もない、の一点張りだ。あの頑固者」
「そうか……」
苛立ちを隠そうともしないユーリを、フレンはまっすぐに見据える。
「僕からは言えないし、君に絶対になんとかしてくれとも言えない。だけど、今エステリーゼ様が抱え込んでおられることは、ユーリ、君にしか解決することができないと僕は考えている。どういう形になろうとも」
ユーリは眉間に皺を寄せた。そういうまだるっこしい言い回しは彼が嫌うものだと誰よりも知っているはずのフレンが、曖昧に言葉を濁しながらも重ねることに違和感を覚えたのだ。
「何が言いたい」
「すまないが、言えない」
剣呑に詰め寄るユーリにそう繰り返して、フレンは口をつぐんだ。辛抱強く続きを待つユーリに、彼は青い瞳を翳らせる。
「……君は、ちゃんと幸せになろうと考えているか?」
「は?」
唐突な問いかけに、ユーリはぽかんとした後に顔をしかめた。
「今はエステルの話だろ」
「出来ることを真剣にやり遂げていく、それが君の生き方であり償いでもあると知っている。だが、君が自分の幸せを求めないことが、自分を罰し続けながら一人で苦しむことは償いか?」
押し黙るユーリに、フレンは低い声で続けた。
「ユーリ。分かっているだろうが、自分を罰していれば許された気がするだなんて、そんなのはただの自己満足だ」
「誰もそんなことは言ってねぇだろう!」
「なら、ちゃんと君も幸せに生きてくれ」
どこまでも真摯に、フレンは強い瞳でユーリを見ていた。
「君自身の人生を豊かにすることが、君の周りの人を幸せにすることにも繋がるんだ。人は一人では生きていけない。君だってわかっているはずだ」
思わず床に目を落としたユーリに、フレンは背を向けた。執務机に向かい、書類を取り上げながら口を開く。
「エステリーゼ様を頼む」
いつか聞いたのと同じ言葉に、ユーリはとっさにこみ上げた百万言を飲み込んだ。黙ったまま踵を返し、騎士団長室を出て行く。
扉の側で待機していたソディアに「終わったぜ」と声をかけ、ユーリは正門を目指して歩き出した。
ユーリの中に巣くっている葛藤と矛盾に、正確にフレンは切り込んできた。
これ以上力によって苦しむ人が減るのならそれで構わないと、手を汚した。
それは罪だと知ってなお、それでもその手を取ってくれたぬくもりを、細い指に救われたことを、忘れたことはない。
信頼と親愛をこめたあの笑顔をこの先失うことがあるとしたら、原因はひとつだろうとユーリは思っていた。彼女がはっきりとその好意を示したなら、なんらかの答えを出さなければならない。そしてたぶん、彼女を傷つけてしまう方を選んでしまうだろうとユーリは思っていた。わかっていた。
だからこそ巧妙にその気配を避け続け、一定の距離を置いていたのはユーリの方なのに、何故エステリーゼがあんなにもはっきりと線を引いたのか。
そしてフレンは何故、あらためて切り込んできたのか。
いつかは向き合わなければならないことだというのは分かっていたが、まだその準備が出来ていないことも分かっている。
下町に戻ったら、八つ当たりをしてしまう前に何か力仕事をさせてもらおう。そう決意しながら、ユーリは黙々と歩を進めた。