Turn and turn

Tales,小説ゼロしい

 

8 (ちぎれた鎖)

 

 りーりーりー、と、涼やかな虫の音が耳をくすぐる。満天に散る星と、二つの月を映した小川の畔にかがみ込んでいたしいなは、こっそりため息をついた。
 ちらり、横目で見やった先には、夜空を見上げたまま微動だにしない、赤毛の男が立っている。
 シルヴァラントに旅立つ前だって、二つの世界を飛び回っていた間だって、世界が一つになってからだって、この男と居て間が持たないなんて事態には遭遇したことがないのだ。瞬間的に気まずい事はあっても――最近特に増えてきたような気がするのだが――こんなに長い間、居心地の悪い沈黙が続いたことはない。
 さらさらと流れていく水に手を浸していたしいなは、反対側の手で袂をおさえてその手を水面から引き上げ、一度振って水を切った。いつまでもこうしては居られない。
 髪をなでつけながら、裾に気をつけて立ち上がる。
「で? 頼み事とやらを聞こうじゃないかい?」
 目線だけやった先で、先程と変わらず空を見上げていたゼロスは、ん、と生返事をよこした。眉をひそめ、体ごと彼に向き直る。
 しいなが今日着ているのは、いつもの戦闘用の装束ではない。ミズホの里の者達が普段着ているのと同じような着物に身を包んでいるため、普段この男の前でしているようには動けない。自然、よく彼が言うように「ちょっとは女らしく」するように動くことになってしまい、それが少しばかりしゃくに障る。
 そもそも、前触れもなしにふらりとゼロスがやってくるのはまあいつもの事だが、何故よりにもよって今日だったのか。
 たまにはしいなも戦装束ではなく普通の娘の格好をして目を楽しませてくれ、と祖父にせがまれ、箪笥の奥深くにしまいこまれていた着物をひっぱりだしてきたのは今朝のこと。今日一日だけと約束したものの、何故そんな約束をしてしまったのかと、しいなは今になって海より深く後悔していた。
 ある意味では、一番見られたくない人物に見られてしまったのだから。
 里の広場に降り立ったレアバードを認めた瞬間に、まずいとは思ったのだ。だが祖父との約束を破るわけにもいかず、「しいないるー?」と訪ねてきたゼロスを仏頂面で迎えた。案の定彼はまず目をまんまるに見開き、次に手を叩いて賞賛し、「やー、やっぱり馬子にもいしょ」などと口走ってしいなの拳骨によって地に倒れ伏した。
 それが夕刻の事だ。そのまま藤林家にあがりこんだゼロスは、夕飯もその後の酒宴も祖父と大盛り上がりで、結局あんた何しに来たんだいと問いつめた所、彼は外を指さしたのだ。
「頼みがあるんだ。ちょーっとばかりいいか?」
 内心では首をかしげながらも頷いて、こうやって外に出てきたものの、ゼロスは何も切り出してこないし、慣れない格好でいる居心地の悪さも手伝って、しいなは戸惑いを隠す為に声を少し尖らせた。
「ん、じゃないよ。あたしに頼みがあるんじゃないのかい?」
「んー」
 またも曖昧に応えたゼロスは、ズボンのポケットに手をつっこんだまま、しいなに体半分だけ向き直った。
「ま、そんなむずかしーことじゃねーんだけど」
「何を今更。あんたにでっかい迷惑かけられたところで、驚きゃしないよ。なんだい?」
「うわひっで」
 小さくゼロスが笑ったのに、ほっと息をつく。そうしたことでしいなは、ゼロスの様子が常とは違うことに、自身が緊張していたことを悟った。
 そうだ、おかしい。
 つかみ所のないへらへらした笑顔も、落ちかかってくる長い前髪をかきやる時の気どった隙のない動きも、今はない。どこか上の空のようなのに、彼の纏う空気は固い。
 しいなは本格的に顔をしかめた。けれど、開いた唇からこぼれた声は、自分でも驚くほどに柔らかかった。
「……聞くよ。言ってみな」
 ふ、とゼロスが細いため息をついた。その手がゆっくりとポケットから引き抜かれ、差し出される。
 開かれたてのひらに載っていたものを月明かりの中に認めて、しいなは目を見開いた。
 月明かりしか頼りにするものがなくても、見間違うはずがない。
 透明なみどりの石。ただの宝石なら、旧テセアラの中でも有力な貴族であるゼロスが持っているのは何の不思議もないが、これはただの石ではない。
 神子の宝珠。
 再生の神子として生まれた彼だけが手にする、特殊なエクスフィアであるクルシスの輝石。再生の神子として彼を縛っていた、輝石。
「あんた、それ――」
 掠れた声でそこまで問い、そしてしいなはその先の言葉を見失った。
 どうした、のか。どうして、なのか。
「セレスが、うちで暮らすことになった」
 呟かれた彼の異母妹の名前に、目線をあげる。長い間、意思の疎通がうまくいかなかったばかりにすれ違っていた兄妹が、ここのところ頻繁に行き来しているのは知っていたが。
 ああ、としいなは少しだけ表情をゆるめた。
「良かったじゃないか」
「まーな。けど、問題があってなぁ」
 少しばかり茶化した口調に、照れを見とって、笑みを噛み殺すのに懸命なしいなの目の前で、ゼロスは差し出したままの輝石を手のひらで転がした。
「こいつを、預ける先がなくなっちまったんだ」
 ゼロスが落とした目線につられて、しいなもまたその輝石を見つめた。
「――ロイドに、預かってもらったらどうだい? 他のエクスフィア達といっしょに」
「それも考えた。けどなー、コレットちゃんがまだちゃんと持ってるってぇのにさ、俺さまがさっさと手放すってのもなぁ」
 その輝石は、神子に天使の力を与えるもの。神子から個人をとりあげるもの。
 だが、今もコレットはまだ混乱している世界を導くための方便として、その輝石を身につけている。世界を統合した神子として振る舞う為に。
 それは彼女と、彼女の傍らで共に歩む少年の本意ではない。けれど、そうせざるを得ないのもまた現実なのだ。
「……それも、そうだね……」
「おう。だから、持ってて」
 今度こそしいなは息を呑んだ。はじかれたように見上げた先で、ゼロスはいつの間にか、正面からしいなを見ている。
 かつては合わされる事の少なかった青灰色の瞳が、まっすぐに。
「――あたし、が?」
 知らず知らず、両の手は袷の辺りを握りしめていた。息を詰めて見つめ返していた先で、ゼロスの薄い唇が少しだけ柔らかく笑みの形をとる。
「持ってて」
 同じ言葉が繰り返され、促すようにその手が動く。しいなはもう一度その輝石と彼の顔を見比べた。
 なんで、どうして、と問うのはさほど難しくないはずだ。そのはずなのに、どうしてもそれは口に出せなかった。
 ゼロスはきっと答えない。答えられない。そして、しいなはその答えを、たぶん持っているのだ。
 虫の音と、水のせせらぎだけが響く静寂の中、しいなはこくんと喉を鳴らした。
 そろり、握りしめていた拳をほどく。ただ差し出されている彼の手のそばに、両のてのひらをそろえて、水を掬う様に差し出した。
 ゼロスは軽くその輝石を握ると、ゆっくりと手首を回転させて、それを待つしいなの手の上で開く。
 ぽとん、と落とされた輝石は、まだ彼のぬくもりを残していた。
 ゆっくりと、それを手のひらの中に包んで、胸元に引き寄せる。手の中に固い感触を感じながら、しいなはもう一度ゼロスを見上げた。
「本当に、あたしが預かってていいのかい?」
「ん」
 あっさりと頷いたゼロスは、思い出したように小声で付け足した。
「もう使うことなんかないだろーけど、持っててくれや」
 この小さな石が、神子を縛りつけていた。それが神子を護ってきた。そして、それが『ゼロス』を殺してきた。
 大きく息を吸って、長く吐く。
 そうしてから、しいなは懸命に微笑んだ。
「わかった。あずかっとくよ」
 ゼロスは頷いて、そしてその手はもう一度ポケットの中に戻った。くるりと踵を返したゼロスの背で、紅い髪が揺れる。
「さーてと、キモノ姿のしいなちゃんを肴に飲み直すとすっかぁ!」
「まだ飲むのかいあんたは!?」
「おうよ。シリアスやって疲れちゃったもん俺さま」
「勝手に疲れてろ!」
 いつものように力いっぱい背中をどつこうとして、けれど手の中にある輝石を思い出して動きを止める。
 両手に持っていた輝石を左手にうつして、そしてしいなはその背を、どつくというにはほど遠い優しさで軽く叩いた。
「まあ今日くらいは、飲ませてやるよ。骨休みして行きな。どーせ明日からまた忙しいんだろ?」
「それ言うなって忘れてんだからさ~」
 意識して交わす他愛ない会話に笑顔で応じて、家に向かいながら、しいなは輝石ごと左手を強く握りしめた。
 もう、これに二度と彼が縛られることがないように。
 二つの月に、そう願って。