真綿
テイルズオブシンフォニアの、本編終了後のゼロスとしいなのお話です。
※ゼロしい恋愛要素がふんだんにあります(元カノ設定有効)
お好きな方はどうぞ!
-1-
時間を惜しむあまり儀礼を大幅に省略した謁見を終え、メルトキオ城正面大扉を出た正門前の広場を横切うとして、彼女はふと足を止めた。視界の端をかすめた人影に、見慣れているのに何かが違う、そんな違和感を覚えたからだ。
首を巡らし、そしてしいなはああと呟いた。
見慣れているのはワイルダー家の執事である、セバスチャンだ。その彼と同じ様な格好に同じような姿勢でかしこまっているのは、なんといったか――そう、確かあの少女がひときわ大きな声でいさめるように呼んでいたあの名は。
「――トクナガ、さん?」
ミズホの民の名に近いその響きに物珍しさを覚えたから、覚えている。正解だったようで、しいなの側に寄ってきた彼は、あらためて頭を下げた。
「お久しゅうございます、藤林様」
しいなは肩をすくめる。久しいと言っても、一対一で会話をすることなど初めてと言っていい相手だ。
同じワイルダー家の執事とはいえ、彼は当主の妹であるセレス付きの執事だ。長らく離れて暮らしていた兄妹だが、今は二人とも同じ屋敷で暮らしているので、現在ワイルダー家には執事が二人いることになっている。大貴族にはそう珍しくもないようなことを当主が言っていたので、そういうものなのだろう。
当主であるゼロスとは公私ともに頻繁なやりとりをする関係上、セレスと顔を合わせることも少なくはない。ないのだが、表面上は和やかな、けれどちくりととげをかくした会話を交わすことが常であるしいなとしては、トクナガがわざわざしいなを待っていた様子であることに困惑した。
軽く眉根を寄せ、腕を組む。
「どうしたんだい? セレスが何かあたしに用とか?」
「は。申し訳ございませんが少々お時間を頂きたく、主はホテルの方でお待ちです」
「……ホテル? って正門前の? セレスが?」
立て続けの質問に、トクナガは黙然と首肯した。ご案内致します、と白手袋に包まれた手がすいと大階段の方を示す。
眉間のしわを深くしながら、しいなは首をかしげた。統合された旧世界同士の条約締結は目の前で、全権大使とかいう肩書きをもっている身としては時間などどれだけあっても足らない状況だ。
それを知らないセレスではない。なんせ彼女にその肩書きを押しつけたのは彼女の兄で、彼もまた同じように奔走しているはずなのだ。そのセレスがわざわざしいなを呼びつけるだなんて、いったい何があったのだろうか。
「いったい、どういうことなんだい? あたし忙しいんだけど」
「存じ上げております。ご足労おかけ致しますが、主が折り入ってお話を、と」
それきりトクナガはそれ以上を説明しようとしない。
首をかしげかしげついていくしいなが案内されたのは、ホテルの一室だった。トクナガがノックをし、一言二言交わした後に扉を引きあける。
「どうぞ」
逡巡したものの、しいなは結局足を進めた。
そもそも、城からなら貴族街の中心にあるワイルダー家の方が近い。なのにわざわざホテルの一室まで案内されるというのはどういうことなのか。
幾分和らいではきているものの、セレスとしいなの関係は友好的とは言い難い。しいなとしてはそこまでの隔意はないものの――なんせ襲撃されたとはいえ結果的に返り討ちにしてしまったのはこちらなのだ――セレスにとってはそうではないらしい。
しかも彼女は兄であるゼロスを大層慕っている。あいにく大変わかりづらいそれは、なかなか当の本人には通じていないらしいが。
そのゼロスと対等に口論し時には鉄拳制裁を飛ばし、仕事の話が大半とはいえ一日共に過ごしていたりするしいなに対して、セレスの対応は自然けんか腰である。
まさかあらためてなんか文句つけられるんじゃ、といささか危惧しながらもしいなは部屋に足を踏み入れた。バルコニーにほど近いところに設えられているソファに腰掛けていた少女がすいと立ち上がり、こちらに向き直る。
桃色の髪を耳の後ろにかきやり、セレスが会釈をした。その愛らしい顔立ちに浮かべられている表情に、しいなののど元まで出かけていた文句は引っ込んだ。
思わず早足に部屋を横切る。セレスの正面で足を止めたしいなは、ひどく思いつめたようなセレスの顔と、きつく握りしめられている両手を交互に見やって、首をかしげた。
「――セレス? どうしたって言うんだい」
「急にお呼び立てた非礼はお詫びします。どうしても、あなたにお話が」
固い声はわずかに震えていた。扉が閉じる音に視線をやると、トクナガが廊下に出たようであった。
何がなんだかわからないまま、とりあえず憔悴した様子のセレスをソファに座らせる。あらかじめ用意されていたティーポットにセレスが手を伸ばそうとするのを制して、しいなはカップに紅茶を注いだ。
ふわりと芳ばしい湯気が立つカップをセレスの前に押しやり、向かいのソファに腰掛ける。セレスが、ありがとう、と呟いた。
「……何か、あったのかい?」
一口、セレスが紅茶に口をつけたのを確認してから、彼女は静かに尋ねた。膝の上で行儀良くそろえた両手に力を込めたセレスが、思い詰めた瞳を向ける。
「不躾なことをおたずねします」
「はぁ」
なんのこっちゃいと思いながらも、しいなも背筋を伸ばした。
「あなたは、お兄様とその――深い関係に、ありますか?」
時が凍るというのはこういうことなのかと、しいなは硬直した思考の片隅でそう考えた。間違いなく現実逃避の一環だ。
深呼吸をしてみたが、セレスの表情は真剣の一語で表せるものだ。質問の意図が見えないまま、しいなは胡乱な目つきで相手の瞳を見つめ返した。
「いやあの……そりゃ確かに、友人かって言われたら違う気もするけど、でもそれはないね」
首をひねりひねり、しいなは答える。幾分耳のあたりが熱いのは、故意に無視した。
自分とゼロスの間柄は、本当に曖昧なものなのだ。
仲間、と言ってしまうのが一番早い。友人、と言うにはいささか波瀾万丈であったし、知人と言うほど遠くない。
ほとんど喧嘩腰の軽口をたたき合う。落ち込んでいるような風情の時は何も言わずに側に座っているし、その逆もある。傷口を暴いて抉っておきながら、それが癒えるまで付き合ってくれたこともある。側にいて、と言われたこともあるし、ここにいて、と頼んだこともある。誰にも話せないようなこともどうしてかゼロスは知っているし、ゼロスが誰にも見せないのであろう部分を、本当にわずかずつながらもしいなは知っている。
彼に抱いている感情は、複雑ながらも好意であるのだと今は思える。それもいわゆる恋とか愛とかそういったものなのだ――大変困ったことに。できることなら、あんな面倒くさいうえにお調子者でややこしくてひねくれた根性曲がりの寂しがりな皮肉屋に惚れているのだなどとは、一生気づきたくないところだったのだが。
自惚れかもしれないが、ゼロスはしいなの気持ちに気づいている。それを知っている。
そしてしいなもまた、ゼロスが自分に向けている感情がそういう類のものだと気づいている。気づいていることをゼロスが許容していることを知っている。
けれどそれが、いわゆる世間一般での恋人同士なのかと言われると、首をかしげざるを得ないのだ。なんせ自分たちときたら何かを言い交わしたわけでも、具体的に約束をしたわけでも、恋人らしい振る舞いに及んだこともないのだから。
だから、セレスの問いに関して言えば、答えは否なのだ。
「そう、ですか……」
どう考えても曖昧になる返答に、なぜかセレスは、ひどく落胆した様子で押し出すように呟いた。
「――いや、その、できれば理由を聞かせて欲しいんだけど。その質問もだけど、あたしをわざわざここに呼び出したことも」
セレスは顔を上げた。深い吐息をついてから、迷うように軽く握った手を口元にあてる。
「その前に、もう一つよろしいかしら?」
しいなは無言のまま手のひらを上に向けて、発言を促した。セレスはこくんとうなずき、そしてあらためて姿勢を正す。
「あなた、お兄様に触れたことはありまして?」
「殴ったりはたいたりなら山ほど」
「そうではなくて」
間髪入れずにセレスは遮り、額に手をあててソファの背に体重を預けた。
「……お兄様に」
首を反対側に傾けたものの、しいなは黙って言葉の続きを待った。
伏せた睫を二、三度ふるわせてから、セレスは肩を落として呟いた。
「手を、振り払われてしまったのです」
目を丸くして、しいなは身を乗り出した。その拍子にテーブルに膝がぶつかり、かちゃんと上等な茶器が音を立てる。
「ゼロスが? なんでまた」
「眠ってらして」
セレスはため息混じりに答え、そして力なく膝に下りていた両手を握りしめた。
「毛布でも掛けないと、お風邪を召されると思って……そうしたら、突然目が覚められて……」
「――あいつ、気配とか過敏なんだ」
セレスの前にある、冷え切っている紅茶とティーポットを盆に載せると、しいなはそれを持って立ち上がった。
傍らにおいてあるワゴンから、新しいカップを取ってトレイの上を入れ替える。火の入っている暖炉で湯気をたてているやかんを取り上げお湯を注ぎながら、ゆっくりと口を開いた。
「ずっと教皇派とかから狙われてたせいなんだろうね。寝てても眠りが浅いんだ。あいつ、ロイド達と旅を始めて雑魚寝することになった時、誰かと一緒に眠ったことないって言ってた」
ティーコージをかぶせ、砂時計をひっくり返す。さらさらと砂がこぼれ落ちるのを眺めながら、しいなはその砂時計を指でつついて苦笑した。
「メルトキオじゃ、知らない人なんていないくらいの女好きの放蕩ぷりだったってのにね。なのに、あいつ、たぶん怖いんだよ」
「――怖い?」
驚いたように、セレスが視線を上げた。まっすぐにその目を見返して、しいなはゆるく微笑む。
「どう言えばいいんだろうね……。わかんないけど、たぶん、安心するのが怖いんだ。だから触れるのも触れられるのも、怖い」
少女がきょとんと瞳を丸くする。それに微笑みかけてから砂が落ちきった砂時計から手を離し、ポットを取り上げた。
「伸ばした手が拒まれるのが怖くて、伸ばされた手が引いてしまうのが怖くて、――だから、先に拒んじまう」
二杯分の紅茶を淹れ、それをのせたトレイをテーブルに運び、しいなはソファに腰を下ろした。
「あたしも一回やられたよ。そのあとで、あいつの方が……痛そうな、顔してた」
静かに押しやった紅茶の湯気の向こうで、セレスが泣きそうに顔をゆがめる。思い当たる節があったのだろう。
身を乗り出したしいなは、そっとその桃色の髪を撫でた。
「だから、めげないでやっとくれよ。大丈夫、あいつはあんたのこと大事にしてるよ。この世にたった二人の兄妹だろう?」
こくりとうなずいたセレスの瞳から、ほろりとしずくがこぼれ落ちる。それを指の背でぬぐってやって、しいなは笑いかけた。
「胸張ってあいつの前に立って、そんであいつが謝ってきたら、交換条件でも出して偉そうに許してやればいいよ。あんたには、それが許されてるんだから」
「……ええ……」
小さくうなずいたセレスの頭を最後に軽くぽんと叩いて、しいなは明るい声で「さあ」と促した。
「とりあえず、あんたはこの紅茶を飲んで、そんで顔を洗ってから帰ってやんな。きっとあいつ、冬眠前の熊みたいにうろうろしながら待ってるから」
「お兄様を熊なんかにたとえないでくださいっ」
きっと見上げてくるセレスに、しいなは声を上げて笑った。
「そうそう、その調子」
「全くもうっ」
憤然と、けれど優雅な仕草でセレスがカップを取り上げる。くすくす笑いながらしいなも紅茶を口に含み、そして窓の外にちらりと目をやった。
――腕を伸ばすのが怖いのは、自分も同じだ。
拒まれるのが怖い。この微妙なバランスの上で保たれている関係は、妙に居心地がよくて、一歩も足を踏み外せないばかりに同じところをくるくる回っているのがわかりながら、何も変えることができない。
けれど。
いつまでもこのままでいられないことくらい、しいなにだってわかっているのだ。
-2-
壁一面がガラス張りになっている本社ビル最上階の会長室は、豪奢な絨毯に光を踊らせていた。
空の青に海の青。外は日常を離れてバカンスを満喫する人々で溢れているのに、その中心にあるこのレザレノカンパニー本社ビルには勤勉な人々が忙しく動いている。
重厚な木製のデスクの上で書類をそろえ、それを脇に控えている少女に手渡したリーガルは、背もたれに体重を預けながら嘆息した。
「あれから二年か。やっと本格的な調印にこぎつけられたというのは、早かったのか遅かったのか」
「どっちなんですか?」
書類をケースにしまいながら、プレセアが首をかしげる。デスクにもたれかかっていたしいなは、苦笑しながらプレセアの方へ手を伸ばした。はいどうぞと差し出されるそれを脇に置いて、やれやれと腕を組む。
「なんせ前例がないからねぇ。あたしとしちゃ、あっという間だったけど」
「それは同感だ。息をつく間もなく全力疾走だったな」
くつくつ笑いながら、リーガルが紅茶のカップをとりあげる。すでに中身は冷え切っているのであろうが、かまわずそれを口に運ぶリーガルに、プレセアがほんのわずか口の端に笑みを浮かべてワゴンの方へ足を向けた。
「明日が終わってもそれは変わらないと予測しますが」
「わかっていてもそこは黙っていてくれるとありがたかったな、プレセア」
渋い顔で唸るリーガルに声を立てて笑いながら、しいなはかつては共に戦場を駆けた仲間達をしみじみと眺めた。
すっかりレザレノカンパニーの会長として革張りの椅子が似合っているリーガル、その秘書としてリーガルの片腕になっているプレセア。経済面から統合された世界を支援し、復興を助けているのは彼らをはじめとする旧テセアラ側の実業界であった。
旧テセアラ側と旧シルヴァラント側の、領土や統治に関する基本条約が調印されるのはいよいよ明日だ。調印の地としては今はもう残骸しか残っていない救いの塔が候補にあがっていたが、なにぶん交通の便がよろしくない。ついでに建物もない。宿泊施設など、もちろんない。
王都メルトキオや、旧シルヴァラント側の中心となっているイセリアでは、どちらかの偏重となってしまう。よって、ほぼ中立を保っていて、人が集まることができるここアルタミラが調印の地として選ばれたのだ。
「まあ、めまいがするほど忙しかったのもとりあえず一区切りなのは間違いないしね。ほんと、無事ここまでこれて良かったよ。下には人もたくさんいたし――みんな明日の調印式も見ていくのかね」
「はい。ホテルの方も代表や来賓の皆様の分の確保が優先でしたので、調印式が決まった翌々日には満室になってしまいました」
プレセアが差し出してくれる紅茶をありがたく受け取る。まだ熱いそのカップをくるりと回して冷ましながら、しいなは窓の外を見やった。
空に広がる不吉な影はもう無く、そこにあるのはまぶしいばかりの太陽と青い空。
「ま、これが新しい世界の歴史の、新しい第一歩、ってとこだもんね。あたしらの孫の代では歴史の勉強に出てきたりして」
精霊研究所や、メルトキオ城の資料室などで見てきた歴史書を思い浮かべながらそう言うと、リーガルが重々しくうなずいた。
「違いない。その際には全権大使殿の名前もあがるであろうな」
「そ、そんなのは絶対絶対ゴメンだよ! ……アホ神子なら喜ぶだろうけど」
あわてたしいなにくすくす笑いながら、プレセアが小さなスツールを持ってきてくれた。礼を言って腰掛け、しいなは首をかしげる。
「そいやゼロスは? あいつは明日教会側の調印代表だろ、来てるんじゃ」
「ゼロスくんなら、昼前にみえました。昼食にお誘いしたんですが、三日ばかり徹夜だったとかでホテルに戻りましたけど」
「あー……」
しいなは遠い目でメルトキオの方角を見やった。全権大使とかいう臨時にでっちあげられた役職の彼女が、この一月というもの息をつく間もない怒濤の日々だったのだ。交渉らしい交渉はほぼ終わり、残るは法律や契約がらみの理詰めとなった為にしいなが直接関わる範囲は減っており、せいぜい結果を携えて往復するくらいであった――とはいってもそれも睡眠時間を大幅削減する程の忙しさではあったが。
それでも、マーテル教会の代表であるマナの神子として、大貴族ワイルダー家の当主として、メルトキオの中枢を担っている彼の多忙さがどれほどのものかなど、推して知るべし。
最後に直接顔を合わせたのは十日ほど前だったか、それも数分だった。指示代名詞の飛び交う確認と新たな問題提起だけを交わして、じゃあ体に気をつけてそっちも倒れるなよと言い合って別れたのだ。
身なりには不必要なほど気を遣う男なので最初は気づかなかったが、語尾の端々に疲労がにじみ出ていた彼を思い出しながら、口に当てていたカップを下ろす。
「今夜の最終会談の代表は陛下とファイドラ様だっけ。じゃあ大きな出番はないのか……いやでも寝てるヒマあんのかね、あいつ。夜だってあるのに」
「明日会場でぶっ倒れるよりマシだろう。しいなは今晩のレセプションに出席を?」
リーガルの確認に、しいなは肩をすくめた。
「顔だけは出そうとは思ってるけど。どーもああいう場はあたしには肩が凝って」
「うむ、同感だ」
微笑みすら浮かべるリーガルをしいなは半眼で見やり、プレセアはおもむろに膝の上のファイルを開く。
「あんたが同意してどーするんだい、レザレノカンパニーの会長が」
「当然、リーガルさんは出席です。開会の挨拶もリーガルさんです。あと三時間したら礼服に着替えてくださいね」
何やらその書面が黒いのはびっしりとスケジュールがかかれているからなのだろう、ファイルに目を落としたプレセアが淡々と告げた。やれやれ、とリーガルが綺麗になでつけられた髪に指をつっこんで嘆息する。
「どうにも我が有能な秘書殿は厳しい現実を突きつけることに長けている」
「髪もなおして頂きます」
「了解しました、司令官殿」
「よろしい」
厳粛な沈黙がわずかに落ちて、そして三人は吹き出した。明るい笑い声が響く中、しいなは今自分がここにある不思議に少しばかり思いをはせた。
――そう、ほんとうに。人の歩く道など、目指す先など、何が起こってどうなるのか、まったくもって予測がつかない。
やせっぽっちで一人になると声を殺して泣いてばかりだった頃は、小さな相棒にしか涙を見せることができなかった頃は、今こうして光溢れる場所で信じ合える仲間と笑い合っている自分など、想像もつかなかった。
たくさん泣いたし、たくさん苦しんだし、痛い目にも辛い目にもあった。でもそれでも、たくさん笑って、許して、許されて、そうしてここにいる。
本社ビルと同じくらいの高さである建物に目をやって、しいなは少しだけ唇を引き結んだ。
セレスに呼び出されたのは、二月ほど前のことになる。あの頃から慌ただしかった情勢は一気に急加速し、ゼロスともセレスともゆっくりと話をする機会などもてなかった。
あの兄妹はちゃんと仲直りできたのだろうか。それすら聞いていない。ワイルダー家に赴くよりも、城の会議室や謁見の間でつかの間言葉を交わすことがもっぱらで、そんな私的な会話を交わす余裕もなかった。
伸ばした手を振り払われたのだと、そう語ったセレスの痛々しい様子を思い出す。自分の手を払いのけてしまった後の、苦々しげなゼロスの顔を思い出す。
あのときは怒ってみせることでその場をごまかしたのだ。ゼロスは瞬時に立ち直りそれに付き合ってくれて、うやむやにした。
思えば、あのころからもっと怖くなったのだ。踏み込むなと言われたわけでもないのに、それ以上近づくことができなくなった。
だから、ゼロスがたまに見せる柔らかな笑顔に胸が痛くなっても、子どもをなだめる仕草で頭を軽く叩かれても、何かを返す術が思い浮かばなかった。
一方通行なのだ。何かをもらっても返すことなく、投げた言葉に返ってくる声音に含まれているものには気づかないふりをして。
だからすれ違い続けて、同じ場所をくるくると回っていられる。
今はまだ、回っていられる。
人は変わる。
世界も変わる。
だから、このままでは、いられない。
それが心の底の願いではないと気づいては居たけれど。
-3-
案内してくれた従業員に礼を言って、しいなは差し込んだ鍵を回した。かちりと開いた音を確認して、ノブを回す。ごゆっくりとの言葉に礼を述べて、あてがわれた宿泊室に入って扉を背で閉める。
思わずため息が漏れた。レザレノを後にしたあと、テセアラ側のお偉いさんたちのもとへ出向き、軽く挨拶と最終確認をしてきたのだ。夜のレセプションまであと一時間半ほどだが、出るなら軽くシャワーを浴びて着替えなければならない。
どうするかなぁと一人ごちながら、背に負った荷物をとりあえずソファの上に放り出す。薄暗いままの室内の様子をよく見るためにカーテンを開けようと部屋の奥に歩を進めた瞬間、しいなは凍り付いた。
シングルの部屋なので、部屋に置かれているのは物書き用のデスクと椅子、小さなソファにテーブル、そして今晩安眠を貪る為のベッドが一つだ。
だがしかし、ぴんと張ったベッドカバーで覆われているはずのそこは、予測もしていなかった人影によって堂々と占拠されていた。
思わず半眼になって小さくうめく。何度瞬きしても、その場の様子は変わることがなかった。
紅い髪がゆるやかに波打って白いシーツの上にちらばっている。ゆっくりと規則正しく動く肩は本気で熟睡に入っているらしく、そのリズムは乱れもしない。
額を抑えてため息をつく。今さっき自分は鍵を開けて入ってきたのに、なんだって先にこの男は入り込んでいるのだろうか。このホテルの警備はいったいどういうことになっているのか、一度リーガルに問いただしておかねばなるまい。
拳を固めてそんな決意を抱きつつ、しいなはしばらく迷った末にあまり気配を殺さずにベッドサイドに歩み寄った。これだけ熟睡しているのなら起こすのもかわいそうだが、気配を殺せばそれはそれで下手に彼を刺激しそうだ。
顔に髪がかかっている。くすぐったくないのだろうかと伸ばしかけた指を握り込んだ。
振り払われるのは怖い。あんな顔を、ゼロスにさせるのも怖い。
そうやって逡巡している間に、のろりと彼の瞼が震えた。何度か瞬きをしながら、青灰の瞳が焦点を結ぶ。
「……あー、しいな。邪魔してるぜ」
「知ってる。見たらわかる。いやってくらいわかる」
かすれた第一声に大げさにため息をついてみせて、しいなは目で備え付けられているであろう水差しとグラスを探した。目当てのものはソファの横に据えられたテーブルの上にあり、さっさと移動して水差しを取り上げ、グラスに満たして彼のもとに戻る。もそもそ起きあがって頭を振っているゼロスに水を差し出すと、彼はそれを一気に煽って一息ついた。
「わりーわりー。もう一杯」
「それはいいけど、なんだってあんたがここにいるんだい」
もう一度グラスを手に水差しまで歩きながら冷たい一瞥をくれると、だいぶ目が覚めてきたのか、彼は機敏な仕草でひょいと肩をすくめた。
「全権大使殿に話があるからここで待ちたいって言ったら、通してくれたぜフロントが。まあお前まだチェックインしてなかったし、荷物も置いてあるわけでなし」
「伝言置いて自分の部屋で寝てろっ」
水を満たしたグラスを突き出す。ちっとも悪びれていない様子のゼロスはグラスを受け取り、今度はゆっくりと飲み干した。
「だーってここんとこ怒濤だったんだぜー? ここまで来たらもう後は本番残すのみだし、まさかフラフラの目の下隈だらけで出るわけに行かないし、休息取ってよしって陛下も」
「そっちはいいんだよ、人の部屋来て寝るなっつってんだよあたしはっ!」
「だってここなら起こしてもらえるだろうし、一石二鳥?」
「なんの為に従業員とかモーニングコールサービスとかがあるんだい!」
いつもの軽口をたたき合いながら、しいなは心中で安堵していた。やっぱり腕を伸ばさなくて良かった。気づかれて起こしたら、またあのときのように気まずくなってしまうところだった。
「で、レセプションまであとどんくらい?」
問われたしいなは、仏頂面のままで空になったグラスを受け取って、もとの場所に置くために踵を返す。
「小一時間。あんたそのぼさぼさ頭なんとかして着替えないと、間に合わないよ」
「しいなは?」
ベッドの上であぐらをかいているゼロスの前まで戻って、一瞬ためらったものの結局少し離れた位置に腰を下ろし、しいなは渋々口を開いた。
「……まあ、顔くらいは、出そうかと」
そかそかとうなずいたゼロスは、落ちかかってくる髪を手のひらでかきあげ、ところでさぁと小首をかしげた。
「お前、セレスになんか吹き込んだだろ」
直球にしいなはたじろいだ。あわてふためきながら、口の中で「な」とか「え」とか、意味のない音を繰り返す。
「いやもうバレバレだから。隠そうとしなくていいから」
くつくつと含み笑いをしながら、ゼロスがサイドテーブルにグラスを置く。大きくのびをしてあくびを噛み殺したゼロスは、横座りの形になっているしいなの方に向き直り、そして。
やおら頭を下げた。
「すまん。ありがとう、助かった」
「……は?」
ぽかんとその紅い頭を見下ろす。なんの天変地異の前触れだろう。それともこれはタチの悪い悪夢なのだろうか。まさか壮大な罠の序章とかなのだろうか。それならこの前代未聞の情景もあり得る。
「――お前なんか俺さまにすんごく失礼なこと考えてるだろ、そのカオ」
唸るような抗議に、はっと我に返る。いつの間にか冷や汗のにじんでいた額を手のひらで覆い、しいなは軽く頭を振った。
「いや、だってあんたがそんな、あたしに頭下げるとか礼を言うとか、新手のいやがらせか何かとしか」
「はっきりと失礼なやつだなホント」
内容は文句だが、口調はほがらかだった。それにわずかに息をついて、しいなは口の端に笑みを浮かべた。
「……仲直り、したのかい?」
「おかげさまで? いちおー仲直りっつーか……まあほら、俺さまいい兄貴じゃなかったからなぁ、いろいろと」
今度こそ、しいなは声に出して笑った。この男がそれを過去形で語ったことが、なんだかくすぐったかったのだ。
そうだ。ゼロスだって変わる。いつまでも過去にとらわれたままの彼ではない。
「で、セレスに何吹き込んだんだ? あいつ帰ってきてからやたら強気なんだよなぁ」
「強気?」
心底不思議そうな表情で尋ねるゼロスに、しいなは問い返した。そうそうとうなずいたゼロスが腕組みをする。
「前はこう、結構びくびくしてたっていうか……そりゃまあ一朝一夕で兄妹らしくなりましょーってのも無理な話だけどさ、でもこう遠慮がいきなり消えたって言うか、言うことがストレートになってきたっていうか」
「はぁ」
しいなは瞬きをした。いい傾向ではないか。そもそもあの少女は兄を慕いたくてたまらなかったのだから、思うとおりに行動できるならそれに越したことはないのだ。
「どーしたよってきいたら、しいなにアドバイスもらったって笑うんだな、これが。お前らいつからそんな仲良しに?」
「いやなった覚えはあんまりないけど」
即座にそれは否定して、でもそうだね、としいなは笑った。
「別にあたしはセレスを嫌ったことはないよ。かわいいじゃないか、一生懸命で」
「けどさー、絶対アドバイスの内容は教えられない、しいなと二人の秘密だとか言うんだぜ、あいつ」
しいなは今度こそ吹き出した。腹を抱えて笑い転げる。
そうか、そこまで彼女にとっての兄の存在は大きいものだったのか。兄を誑かす雌猫を成敗しに軟禁中の修道院すら抜け出してくるような娘なのだから、当たり前といえば当たり前なのかもしれない。
涙がにじんできた視界で、ゼロスが不機嫌そうにむっつりと押し黙っている。彼がそんな表情を見せるのもまた珍しく、しいなはますます笑いが止まらなくなったが、横隔膜の限界を悟ってなんとか呼吸を整えにかかった。
「いや、うん。そうだね、あんたには教えてやんないよ。セレスがそう言ってるんなら、なおさらさ」
「あっそ」
つまんなさそうに呟いて、ゼロスがそっぽを向いた。くすくす笑いながら、でも少しだけ喉を整えて、わずかに緊張しながら口を開く。
「……あんたのさ」
壁紙の小花模様をにらみつけていたゼロスがこちらに目線だけを戻す。それをまっすぐに受け止めながら、しいなは言葉を選んだ。
「それは、たぶん経験不足なんだ、と思うよ」
ゼロスの、男のくせにやたら長い睫がしばたたかれる。そしてその顔がわずかに強張るが、しいなはかまわずに続けた。
「慣れてないから、反射的に振り払っちまうんだ。ちょっとずつ慣らしていけばいいんじゃないかい?」
ただの愛情だけで触れられること。恋愛遊戯の課程の一環ではなく、世辞と儀礼のものではなく、何かの見返りを求めてのものでもなく。
愛おしいから触れる、ただぬくもりを分けるために触れる。そんな当たり前のことが、彼にとっては当たり前ではなかったのだ。
だから彼はすくんでしまう。拒んでしまう。それは当たり前ではあってはならないものだったから。
でもそのままではだめなのだ。彼を慕うあの可愛い少女のためにも。
そして、何よりもしいな自身が、それではいやだと思うのだ。
妙に居心地のよかったあの時間が二度と戻らないかもしれなくても、怖くてたまらなくても。
それでも心の奥底で、このままはいやだと、そう思うのだ。
ゼロスは怖いくらいに静かな瞳でしいなを見返していた。沈黙が痛い。けれどしいなは踏みとどまった。
セレスも一歩を踏み出したのだ。いつまでもおびえて立ちすくんでばかりはいられない。
だってほら、あの青灰の瞳はそれでもまだ寂しそうで、手のひらは空っぽで。よくゼロスはしいなの腰帯をいじって遊ぶが、それはたぶん。
「――どうやって慣らすんだよ? しいなちゃんが協力でもしてくれるわけ?」
「あたしでいいならいくらでも」
予測してた答えに即座に返すと、ゼロスは驚いたように息を呑んだ。否定も肯定もないままに、時計の音がかちかちと響く。
しいなはゆっくりと指を伸ばした。寝乱れたままの髪に少しだけ触れる。それだけなのに、ゼロスはわずかに身を引いた。
ぱたりと伸ばした手をシーツの上に落とした。
まだ、ダメだったのだろうか。それとも、自分ではダメなのだろうか。今まで確かにあったと思っていた何かは全部錯覚で、ただの思い上がりだったのだろうか。
思わず伏せた視界の外側から、いらいらしたような嘆息と、髪をわしゃわしゃとかき回す音が聞こえた。
「ああいやその、何だ、――くそ」
最後には悪態になったしどろもどろの言葉は、舌打ちで切り上げられる。それに誘われるように顔を上げると、ゼロスもまた視線をそらしてこめかみのあたりを軽く握った拳でこつこつやりながら言葉を探していた。
「いや、だから別にお前にさわられるのがいやとかそーゆーんじゃなくて……だな、なんかこう驚いたつーかいきなりだったっつーか、ああ違うお前が悪いんじゃなくて――」
半ば以上呆然とたぶん彼なりの言い訳を聞いていたしいなは、わずかに頬をゆるませた。
弁解するゼロス。こんな彼を見ることだって、たぶん初めてだ。
今までどおりではないのに、けれどちっともいやじゃない。怖くない。
「だから悪いのは俺だけど、ほらなんつっかそう簡単に今までの習慣は変えられないっていうか」
軽く深呼吸をしてから、強張っていた唇を開いた。
「ゼロス」
ぴたりと彼が口を閉ざす。ゆっくりと逸らされていた視線が戻ってきて、絡み合う。
「……なに?」
しいなはもう一度手を伸ばした。先ほどよりゆっくりと。ちょっと気がゆるめば逃げ出しそうな腕を必死に動かす。
「あんたがイヤだって言うなら、もう二度としないから」
「それはイヤ」
間髪入れず返ってきた答えに腕が止まる。ゼロスの瞳が見開かれた。
その様子から察するに、おそらく彼にとっても今の発言は反射的なものだったのだろう。固まっていた彼は小首をかしげ、そして吹き出した。
「何言ってんだろーな、俺さま」
くつくつとゼロスが笑い出す。しいなも幾分肩の力を抜いて、つられて苦笑した。視界の端で笑っている彼の腕がそろりと動くのには、故意に気づかないふりをして。
だがしかし、その腕は伸ばしっぱなしのしいなの手にほど近いところで止まってしまった。直前でためらってしまったのだろう。
唇を噛んで、そしてしいなは微笑んだ。我ながら泣き出しそうだと思いながらも、必死でそれを笑顔にとどめる。
「……ばかだね、ほんとに」
止まっている手に、そっと触れる。寝起きでかさついているそれはけれどあたたかく、逃げないのを確認してからしいなはその手を握りしめた。
そろりと息を吐いたゼロスが苦笑する。
「お前こそ、俺さまが触ろうとすると逃げてたじゃねぇか」
「ややこしいとこにしか手出してこなかったくせに何言うんだよ」
ばーかばーかと二回繰り返すと、そっとその手が握り返されてきた。
「そりゃしいなの体が魅力的なのが悪い」
「あんたがスケベなだけだろっ」
「そもそもからして何これ。俺さま子ども扱い?」
「コリンによくこんなことしたけどね」
「うわ小動物かよ」
お互いの目は重ねられた手に落として、そんな軽口をたたき合う。ふっと笑ったゼロスが、今までとは口調を変えて呟いた。
「いやあのしいなさん、オコサマの恋愛じゃないんですから」
「悪かったね」
思わずそう唇をとがらせてから、しいなははっと息を呑んだ。様子の変化にゼロスが顔を上げる。その視線のせいでますます頬に熱が上った。
「……あれ?」
不思議そうに問われて、何かが基準値を超える。
「い、今のなし! あたしはなんも言ってない! 忘れろいいから!」
握った手を離そうとしたのに、すぐに追いかけてきた手に逆に捕らえられてしまう。振り回そうとした時に目に入ったゼロスの顔は、今までの張りつめた様子が消えていた。
代わりに浮かんでいるのは、大変よくない予感がする笑みだ。
「いやあ、忘れろって方が無理だろ今の」
じりじりと逃げようとするしいなの方に、ゼロスはそれ以上のペースで近づいてくる。必然的に距離は縮まって、伸ばしていたはずの腕はすでに肘のところで折りたたまれていた。
握られたてのひらが熱い。汗をかいているのではないだろうか。それはちょっとというかかなり恥ずかしい。いやこの状況がそもそも恥ずかしくてならないのだが。
自分とは違う体温が近い。呼吸の音が耳に届く。
「……いいか?」
低い声音に、顔をあげる。先ほどまではからかうような笑みを浮かべていた男は、わずかに真顔になっていた。
「いいって、何が」
いつの間にかからからに干上がっていた喉がかすれた声しか出さない。止まっていたゼロスが、ゆっくりと顔を近づけてきた。
「わかんない?」
青灰の瞳が至近距離にある。徹夜続きだったらしいことを証明するようにその目は少し赤かった。それがどこまでもまっすぐに見つめてくる。
「ちょ――ちょっと待った!」
空いてる左手をべちんとその顔面にはりつかせた。主に目のあたりを狙ったそれはクリーンヒットして、ゼロスの動きが止まる。
あの目がこちらを見ていない隙に、なんとかこの暴走する心臓をなだめどこまで紅潮するのか限界に挑戦するかのような頬を冷まさないと。そう思うのに、阻んだ手をがしりとゼロスの手が掴んできた。
「いやいやしいなさん、いっくらなんでもこれはないっしょー」
「わ、ばか、まだダメちょっと待って!」
「いーや待たないあんまりでしょーよ。ほらほら離して」
「だ・れ・が・は・な・す・かっ」
本来の流れから逸脱した力比べになっているそれにばかばかしさを覚えた頃、ふいに顔に張り付かせている方ではない手がぐいと引かれた。バランスを崩して思わずそのまま引き寄せられる。
色々と暴走していたものがついに臨界点を突破した。沸騰した思考が抵抗だとか力を入れるとかそういった機能を停止させる。
結果として、ふと我に返った時、しいなは脱力したようにゼロスの肩口に頭を預けている格好になっていた。その背にはゼロスの腕が回っていて、完全に閉じこめられているであろうことを確認する。
暴れようとして――けれどしいなは止めていた呼吸をゆるゆると吐くことで再開した。
だって、これはものすごく、心地いい。耳に響いてくる自分のものではない心音も、高めの体温が自分の熱にとけ込んでくるのも、ぐるりと包むように回っている腕の、柔らかい力強さも。
確かに恥ずかしいし照れくさいし、暴れて叫びだして今のナシと言いたくなる衝動はまだ残っているのだけれど。
そろそろと腕を動かして、彼の派手な上着に指を引っかけて軽く握り込んだ。こつん、と添えるようにされていたゼロスの頭がこめかみのあたりにぶつかってくる。
「しいな、そこ違う。背中に回して」
けど、と呟いてみたが、もう一度促されて、うまく動かない腕を言われた通りに背中に回す。自然、よりかかったままだった体勢はよりゼロスに密着する形になって、それがとんでもなく気恥ずかしかったけれど、最初に手を伸ばしたのは自分だった責任は取らなければと必死で言い聞かせながら、なんとか要求を遂行する。
細身だと思っていたのに、その背中は広かった。回りきらない腕の所在に困って、肩の辺りにひっかけるようにして寄り添う。
と、ゼロスの腕の力が急に強くなった。まるで自分の中に取り込もうとするように、強く強く引き寄せられる。
しいな、と小さな声が耳元に落ちた。
どうしてこんなに泣きたい気持ちになるんだろう。そう思いながら、しいなは瞼を閉じて、引き寄せられるままに体をゼロスに預ける。
どんな顔をすればいいのかわからないし、彼がどんな顔をしているのかわからないままだったが、今はこれでいいと思った。
きっと視線があえばゼロスはちょっと困った顔をしているのだろうし、そうしたら馬鹿と笑ってやればいいのだから。
それを想像して、本当に笑いがこみ上げてきたとき、こんこんとノックの音が響いた。反射的にしいなは体を起こそうとしたが、彼の腕はゆるまない。じたばたともがくが、額をあわせるようにしてゼロスが目線をドアの方に示した。
「しいな、返事」
「え? あ、あ、は、はいっ!」
ささやきに促されてドアの方に向かって叫ぶと、落ち着いた少女の声がした。
「しいなさん、レセプションもうすぐなんですけど、ゼロスくん知りませんか?」
「ぷ、プレセアっ!」
今度こそなんとか腕を突っ張ってしいなはゼロスから逃れる。ドアの方に進めようとベッドから下ろした足は、けれどうまく動いてくれなかった。仕方がないので動かないまま声を張り上げる。
「や、あたしは知らないけど……っ」
言いかけた途中で、後ろから抱きすくめられて声を詰めた。肩のあたりにふわりと紅い髪が絡んできて、心拍数が跳ね上がる。
「そ、そのうちどっかから出てくるんじゃないかい? あたしも支度終わったら、一緒に探すからっ」
扉の向こうのプレセアが、あ、と声を上げた。
「すみません、支度中ですよね。それじゃ、あとで」
「あ、ああ、またあとで!」
かつかつかつ、と足音が遠くなっていく。全身でため息をつくと、いまだに背中になついているゼロスが不満げに頬を肩口に押しつけてきた。
「えーしいなさん行くのー?」
「あんたが行かずしてどーするんだいっ!」
足に力を込めて無理矢理に立ち上がる。バランスを崩したゼロスがベッドの上から転がり落ちるのを仁王立ちで見下ろしたしいなは、びしりとドアを指さした。
「ほらさっさと自分の部屋帰って支度する! あたしもプレセアにああ言っちゃった以上、支度しなきゃならないんだから」
しばらくブーイングを唱えていたゼロスは、ややあってぱんぱんと埃を払いながら立ち上がった。にっと笑った唇が、すいと耳元に寄せられる。
「そんじゃ、続きはあとでな?」
「ばっ、馬鹿言ってないで、ほ、ら!」
赤くなった頬を隠すべくぐいぐいと背中を押して扉まで押しやりながら、今日は戸締まりを念入りにしようと決意を固めるしいなは、笑っているゼロスが本当にわずかに、ふわりと微笑んだことを知らないままであった。
―了―