Turn and turn
11 (第一印象)
名を呼ばれて、しいなは書き物机から顔を上げた。ふすまの向こうから聞こえた声は祖父のものだ。
「おじいちゃん? どうぞ、何かあったのかい」
筆を傍らに置いて立ち上がろうとすると、祖父がからりとふすまを開ける。何故か愉快そうに笑っている祖父は、しいなの部屋の庭に面している障子を指さした。
「庭に客が来とるから、よろしく頼むぞ」
しいなは首を傾げた。庭? 玄関ではなく?
やはり笑いながら祖父はさっさといってしまい、しいなは訝しみながらも障子に手をかけて縁側に出た。ぐるりと見渡した庭の端っこに、いつもはない色彩を認めて思わず肩を落とす。
藤林家の庭に赤い花が咲くのは冬場だというのに、とんでもなく季節はずれに鮮やかな紅と桃色がたたずんでいる。
「いよう!」
気軽な様子でかかげられた手には大きな花束。女がうらやむほどの長く艶やかな紅髪を風に遊ばせながらすたすたと早足で歩いてくる男に、しいなは胡乱な目を向けた。
「なんであんたがそんなもの持ってうちに来てんだい、ゼロス」
「ん、綺麗だろ? うちの温室の早咲き」
「誰も由来は聞いてないよっ。あたしはなんでそんなものを持ってあんたが今ここにいるのかって理由をきいてるんだよ!」
アホ神子、と続けようとしてしいなはそれを危ういところで飲み下した。二つの世界が統合されて世界を統べていたクルシスは崩壊し、マーテル教の有り様もこれから大きく変わっていくであろう。
だから、この男が神子でなくなる日もそう遠くはないはずだ。あの日、あの塔で初めて聞いた彼の願いの通りに。
と、ふいに額に鋭い痛みが走った。慌てて額を両手で押さえて顔を上げると、指弾に使ったらしい右手をぶらぶらさせたゼロスが苦笑している。
「……まーた何か余計なこと考え込んでたろ、おまえ」
「余計って」
唇をとがらせて、しいなは額をさすっていた手を下ろす。何をどう言えばいいのかわからないままに、結局吐息だけを押し出した彼女の膝に、わさっと花束が置かれた。
濃厚な花の香りが立ち上ってくる。花束とゼロスを交互に見比べてから、しいなは首を傾げた。
「なんだい、これ」
「花束。うちの庭師が丹誠込めて育てた自慢の早咲き」
「なんでこれをあたしの膝におくのか、って聞いてるんだけど」
「受け取れって言ってからじゃ受け取らないでしょーに」
俺さまの計画勝ちー、と続ける口元に浮かんでいる笑みに、しいなは瞬間的に怒りの喫水線を越えた感情をなんとか押し下げた。
確かにこの花は綺麗だ。華麗と言ってもいい。華やかすぎてしいなには合わない気もするが。
かさり、と花束を抱えてみる。レアバードでの長旅にもかかわらずたいして萎れてもいなかったが、やはり早くに水を吸わせてやった方がいいだろう。せっかくこんなに綺麗に咲いているのだから。
しいなは嘆息しながら立ち上がった。
「とりあえず、その辺にでも座ってな。あたしはちょっと花瓶に水入れてくるから」
「おう」
素直に縁側に腰を下ろすのを横目に見届けながら、しいなは花束を抱えて花瓶を捜索に向かった。
どう考えてもこの部屋には浮いている華麗な花を机の上に設え、しいなは盆を持って縁側に出た。ぼんやりと空を眺めていたゼロスが顔を上げる隣に腰を下ろして、お茶を差し出す。
「人間にも水分が必要だろ」
「そりゃどうも」
いただきまーす、と続けたゼロスが湯飲みを取り上げる。しいなもまた湯飲みを傾けてお茶を飲みながら、庭を眺めた。
「……で?」
庭先の木に止まってさえずっていた小鳥が羽ばたいていくのを見送ってから、しいなは口を開く。
「んー?」
茶菓子に用意してあった煎餅に手を伸ばしていたゼロスが首を傾げるのに、しいなはひっぱたきそうになる手を押さえ込んだ。幸いにも、両手は湯飲みを持っているおかげで自制は容易かった。
「だからっ、なんだってあんな花束持ってミズホに来たんだって聞いてんだよ! さっきからのらりくらりと一体なんの企みだいっ?」
「企みっておまえ、人聞きの悪い。別に深い意味なんてねーよ。忙しいだろうテセアラの全権大使様に差し入れ、心の潤い?」
肩をすくめて、ゼロスは煎餅をかじる。ぼりぼりと咀嚼してからお茶を飲む様子はいつもとたいして変わりなく見える。見えるのだがしかし、この男は平然と嘘をつくことをしいなは知っている。そして本気で彼が何かを隠そうとしているならば、しいなには到底見抜くことなど出来ないことも知っている。
本日何度目かの深いため息をついて、しいなは軽く首を振った。
「……まあ、いーけど別に。きれいだし。ありがとう」
と、顔を上げたゼロスはしいなの顔をまじまじと見つめていたかと思うと、おもむろに湯飲みを盆の上に戻す。
何がしたいんだろうかと見守っているしいなの前で、ゼロスは唐突に吹き出した。
続いて腹を抱えて大爆笑をはじめたゼロスを唖然と見守っていたしいなは、堪忍袋の緒が切れる寸前まで延びきっていくのを確かに感じた。よしもう切ってしまおうそうしよう、とお盆の上から煎餅と湯飲みを下ろして武器にする為の作業をするしいなに、呼吸困難になっているらしいゼロスが右手を力なくふってみせる。
「ま、まった。タンマ、い、言う、説明する、から」
「へえ?」
「マジだって、大マジ。あーもーおまえってさぁ、なんで反応があん時と同じよ」
必死で笑いをおさめようとしているゼロスは、笑いすぎて涙のにじんだ瞳でしいなを見上げる。
盆を手にしたままいつでも攻撃できる態勢のしいなの方に、なんとか呼吸を整えたらしいゼロスが指を伸ばしてくる。
怒りを込めた眼差しを少し和らげてその行方を見守っていると、しいなの黒髪をちょっとだけ払ってゼロスは柔らかく微笑んだ。
「ナイスバデーなお嬢さん、俺さまとスイートなひとときを過ごさない?」
「……は?」
思わず真っ白に塗りつぶされた思考のもと、それだけを呟いたしいなは、次の瞬間お盆を振り上げた。
ぱかん、といい音がゼロスの頭で鳴る。殴られた勢いのままつっぷしていた彼は、数秒後元気に起きあがり大げさに頭を抱えた。痛い酷いと騒ぐゼロスに、しいなは「思い出した」と呻く。
「お?」
騒いでいたのを止めて、ゼロスはうつむいているしいなをのぞき込んだ。その顔が悪戯っこの笑みをとる。
「そーか思い出したか。その後俺さまは殴られるんだよ。公衆の面前でアホ神子呼ばわりされて」
「そんで次の日にあんたは花束持って待ちかまえてたよ、あたしを! どんだけ恥ずかしかったか!」
その時の怒りが蘇り、しいなはゼロスの服をひっつかんでがくがくと揺さぶる。だが怒りをぶつけるべき相手はのんきに笑い声をあげるだけだ。
舌打ちをしてゼロスから手を離したしいなは脱力した。本当にこの男ときたら人の神経を逆撫ですることにかけては天才的だ。
「あれはヒルダ姫の誕生祝いの日でなー。頬にくっきり手形がついてて、誤魔化すのに苦労したぜぇ」
「自業自得だろ!」
「ま、おかげで覚えやすかったわけだけどな。つーわけで、今日が俺さま達の出会い記念日ってことで」
「だからなんだってんだい!」
「だから、花を持ってきてみた」
しいなは虚を突かれて、目の前にある顔をまじまじと眺めた。
男の癖にやけに整った顔立ち。感情のあまり見えない蒼灰の瞳。調子のいい追従をつるつると紡ぎ出す唇。
けれど今その瞳は穏やかで、唇は緩く笑んでいる。
いつの間にか止まっていた呼吸を再開するついでに、深々とため息をつく。これが最後になればいいのにと思いながら、しいなは盆を手放した。
「一ついいかい」
「なんでもどーぞ?」
ほーらどんとこーい、などと両手を広げる男に向き直ると右手を上げて、ぺちりとその頬を叩く。
「……アホゼロス」
彼の頬に手をあてたままそう呟くと、第一印象は最低最悪だった男が愉快そうに笑って、しいなの手を取った。
「アホ神子でいーのに、別に」
「よくないっ」
「あれはあれですっげー新鮮だったし」
「あたしがよくないっ」
ふ、と柔らかくこぼれた笑みを含んだ吐息に、しいなは自分が間違わなかったらしいことを悟ってほっとしながら目を閉じた。
そろりと回った腕の中に閉じこめられる。拒むべきなのか止めるべきなのか迷った末に、しいなは紅い髪を軽くひっぱった。
そうしてから、そっと頬を肩口に寄せる。
ゼロスからは、あの花束と同じ香りがした。