あおぞら

Tales,小説リファラ

15

 ファラは眉間を押さえた。
 何で王都に来るたびにこうも対応が違うのだろう。
 最初はどこの田舎者、次は犯罪者、そして世界を救うための勇者、そして今回は極めつけだ。
「ようこそお戻り下さいました。アレンデ様がお待ちにございます。ご案内いたしますので、どうぞこちらへ」
 仰々しい飾りを付けた近衛兵がずらっと城への道に並んでいる。それが一斉に槍を構え直して敬礼をとった。
 城の正門前で恭しく頭を垂れているのは、確か大臣だ。怒鳴りつけられたことすらある人物がこちらを上目遣いに気遣っているのは、なんとも不思議な気分がした。
 ……いいのかな、平民にここまでしちゃって。
 ぼんやりとそんなことを考える。前に来たときはあからさまにチョーカーと服装を見るなり「平民が」という目で見られていた場所なのに、この歓迎ぶりは何事だろう。
 あまりいい気分がしないのは確かだ。けれども、セレスティアで身分というものが存在しない社会を見てきた今となっては、これはこれで、今、インフェリアが平和に機能するためなら仕方がないのかもしれない、という思いもある。それでもやはり面白くはないが。
 半歩ほど前にいるリッドの様子を窺うと、やはりやれやれと言いたげに溜息をついていた。気持ちはわかる。出来ることなら、今すぐ回れ右したいような居心地の悪さ。
 と、歩き出したリッドに続いて足を踏み出した瞬間、ぎゅっと後ろからリボンを掴まれてつんのめりかかった。何事かと振り返ると、ニナが真っ青な顔で震えている。
 目の前には壮大な白亜の城。礼装した近衛兵が脇を二重三重に取り囲み、敬礼をとったまま身じろぎひとつしない。
 確かにこれは、初めての体験にしてはかなりの大事かもしれない。
「ニナさん、大丈夫だよ。とりあえずあの人が呼んでるから、行こう?」
 小さく囁くと、顔色をなくしたままこくりとニナがうなずいた。ニナの腕を取って待っているリッドの横に並ぶと、どうした、とリッドが呟いた。
「大丈夫。にしても大袈裟すぎない、これ?」
「それは俺も思った。どうなってんだ一体」
「アレンデ姫が待ってるって言ってたよね? 王様、まだ寝込んでらっしゃるのかしら」
 ひそひそと小声で話していると、ニナがやんわりとファラの手から取られた腕を抜いた。
「ニナさん、平気?」
「ええ、だいぶ落ち着きました」
 わずかに強張った笑みを浮かべるニナにもう一度大丈夫だよと繰り返して、ファラ達は城の中に入った。

 ニナは別室でお待ちを、と止められてしまい、謁見の間には通されなかった。仕方なく、やはり近衛兵に守られた扉をくぐって、何度目かの扉をくぐる。この部屋に、いい思い出はひとつもなかったのをなんとなく思い出す。
「まあ、リッドさん、ファラさん……!」
 空の玉座の脇に立っていたアレンデが、ファラ達が招かれた位置に立ち止まるより早く赤い絨毯の上を駆け寄ってきた。飛びつくような勢いで、姫はしっかりとリッドとファラの手を交互に握りしめる。
「よく戻ってきてくださいました。こうして再びお会いできることが出来るのも、全てあなた方のおかげです。心から感謝いたしますわ」
「え、や、そ……」
 余りの事態にリッドがうろたえたように辺りを見回す。王様には何度か面会したが、決して玉座から動かなかった。それなのに、いきなりアレンデ姫に駆け寄られるとは思ってもいなかったのだ。
 しかも、控えている家臣達であろう老人達は皆跪いて頭を垂れている。アレンデに対する敬意だと思うのだが、それにしてもこういう雰囲気には慣れてない。
「いいえ、アレンデ姫や皆さんに助けられたからこそ、わたしたちは帰って来れたんです。ご無事で嬉しいです」
 ファラは、さすがにちょっと身を縮こまらせながら口を開く。前に会ったときより幾分質素で動きやすいドレスを纏ったアレンデが、そっと首をふった。
「ファロース山をはじめとして、インフェリア全土にいったいどれだけの被害があったか……まだ把握し切れていないのが現状ですの。けれども、入る報告を聞くたび、あなた方がどうなったのか心配で心配で……」
 アレンデがわずかに潤ませた瞳を二、三度瞬かせたとき、部屋の入り口でお連れしました、と女官の声がかかった。
「あら、いけない、そちらが先ね。お通しして」
 目元を急いで拭いながら、アレンデが扉に向かって告げる。そして、ファラとリッドを見て悪戯っぽく笑った。
「驚かれますよ、二人とも」
「え?」
 アレンデにうながされて扉の方を振り向き、リッドもファラも目と口を丸くした。
「……リッドさん! ファラさぁん――!!」
 叫んで駆け寄ってくるのは、華奢な体に似合わない大きな羽根飾りの帽子。いや違う。帽子をかぶった女の子。
「チャット!」
 抱きついてくるチャットを抱きとめて、そしてファラはその細い躰をしっかりと抱きしめた。その拍子に大きな帽子が床に落ちる。
「やだ、チャット、どうしてここに……。ああでも無事で良かった、心配してたんだよ?」
 目頭が熱くなるのを必死に堪えながら囁くと、チャットがふるふると首をふった。
「心配するのは、キャプテンであるボクの仕事です」
「いや、言ってることとやってること違うけど。……お前、何でこんなとこにいるんだよ?」
 ファラに抱きついたままのチャットの頭をわしわし撫でてから、リッドは帽子を拾い上げてかぶせてやる。そこに、
「わたくしから説明を」
 アレンデが微笑みながら進み出た。
「皆さんのお船と一緒に、バロールの近海で発見されたんです。けれども、言葉が通じなくて」
「あ。そか、チャットはオージェのピアスしてなかったな」
 リッドが苦い顔で後ろ頭をかく。アレンデがうなずいた。
「皆さんからお話を伺ってましたので、わたくし慌ててピアスを取り寄せたのですが、心の……ええと波長でしたかしら、それがうまく合わないのか、なかなかお話が出来なくて。つい最近ですのよ、ようやく分かるようになって」
「まだアレンデ姫と、二、三人くらいなんです。それで、キールさんは? メルディさんは、フォッグさんはどうなったんですか? いったい、あの時、何がどうなったんです?」
 出来るだけさりげなく涙を拭いながら体を離したチャットの言葉に、ファラは再び目を丸くした。
「……フォッグは船に残ったじゃないの! 一緒じゃないの?」
「いえそれが、捜したんですが……」
 あごが胸にくっつくかと思うほどうなだれたチャットに、リッドは肩をすくめる。
「アレじゃねえの? あの時ほんの少ししか離れてなかったキール達ですら、ここにいないんだ」
「そうだよ、チャット。きっと、フォッグはどこか違うところに落ちたんだよ。無事だよ、絶対」
「……そうですね」
 うなずくチャットの肩に優しく手を置くアレンデ姫を見ながら、ファラはほっと息をついた。
 レイス、すごいよ。あなたが守ろうとしてた世界は、アレンデ姫がしっかり守ってるよ。あなたが託したのは正解だったよ。アレンデ姫も、リッドも。
 また鼻の奥がつんと痛くなる。ごまかすように視線をめぐらすと、リッドに目がとまった。
 リッドはひどく穏やかに微笑んでいた。レイスが最後に見せたのとよく似た、満足げな笑み。
 何故か心が痛んだ。引きちぎられるように、どこかが悲鳴を上げた。
 ダメ。そんな顔しないで。もう十分みたいに微笑んだりしないで。手の届かないところに行ってしまったりしないで。
「さあ、晩餐の用意をしますわ。チャットさんも、ああそれにお二人と一緒にこられた方も是非に。わたくしだけの私的な晩餐ですから、そのままいらして下さいね。誰か、お部屋を準備して差し上げて」
 アレンデの声に女官がしずしずと歩み寄ってくる。我に返ると、チャットが「さあこっちです」と得意げにファラの手を引いた。
 喜びのあまり目をきらきらさせたチャットと一緒に謁見の間を退出する頃には、さっきの胸の痛みはどこかへ消えていた。
 気のせいにして、しまい込んでおきたかった。

 

16

 晩餐は豪華だった。
 チャットとアレンデにせがまれたが、核を破壊したときのことはリッドもファラも話を大幅に端折って聞かせた。
 リッド自身の力のこともそうだが、何よりメルディについて触れ回る気にはならなかった。結果、大幅に省略することになったのだ。
 ひととおり話がすむ頃には、食事もデザートにうつっていた。アレンデが紅茶を注ぎながらおもむろに口を開く。
「実は、天文台が新しい惑星を発見したというのです。それも、空からセイファートリングが消えた後、突然に現れたと。今まで百年以上、何もなかった場所に忽然と現れて」
 ファラは思わず食べていたチェリーパイを喉に詰めかけた。慌ててミルクを飲んでテーブルの上に身を乗り出す。
「まさか……」
 ええ、とアレンデがうなずいた。
「学者の中には、あれはセレスティアではないかと言う者もおります」
「ボクもその可能性は非常に高いと思いますね。望遠鏡から見せてもらいましたが、影になっている部分が、セレスティアの海の形に酷似してます」
 さっきから甘いものばかりを皿に取り分けているチャットが断言する。ファラは溜息をついて椅子の背にもたれかかった。
「チャットが海の形を間違うわけはないだろうし。そっか、分断ってそういうことだったんだ……」
 考え込むファラの向かいで、ニナが紅茶のカップをソーサーに戻して首を傾げた。最初の頃は食事も喉を通らなかったようだったが、話とご馳走が進むうちに、ニナもだいぶ緊張がほぐれてきたらしい。
「つまり、セレスティアとインフェリアは夜空に浮かんでいる二つの別々の惑星で、セイファートリングは文字通り、なんらかの形でそれを繋ぎ止めていたと言うことですか?」
「ボクはそう考えます。ああ、キールさんがいてくれたら、もっと楽だったでしょうに……」
「楽って何が」
 問うリッドに、チャットは何故か誇らしげに胸を張る。
「バンエルティアは、大海賊アイフリードであるボクのひいおじいさんの船ですよ。ひいおじいさんは、まさに世界をまたにかけていたんです」
「いやそれは何度も聞いた」
 ニナは初めて聞く事実に目を見張ったが、リッドは力無く突っ込みをいれた。ファラがそんなリッドの足を踏んで黙らせる。
「エターニア全てを旅したひいおじいさんは、次はあの星空に行こうとしたんです」
 ニナとファラは絶句した。リッドだけが一人のんきに、星空にどうやって船で行くんだと首を傾げる。
 アレンデが、わずかに困惑の混じった笑みでリッドに向き直った。
「あなた方のお船には、空を飛ぶ……飛空挺といいましたかしら、があるのでしょう?」
「ああ、あったよ。そういやチャット、バンエルティアは無事なのか?」
「無事ですとも。驚かないでくださいね、バンエルティアは更に改造できるんです!」
「……あれ以上どこをどう改造するんだ」
 自慢げにフォークをかざして告げるチャットに、やはりリッドは小声で突っ込んだ。空を飛ぶだけでも、リッドにはまさに天地がひっくり返るほどの出来事だったのに。
 我に返ったファラが、またリッドの足をさりげなく踏んで黙らせる。
「更に、って、どうなるの?」
「先程も申し上げましたように」
 とうとう椅子の上で胸を張る限界が来たチャットは、すとんと椅子から降りると窓の外を指さした。
「ひいおじいさんは星空に行こうとしました。しかし、ボクが発見した改造ドッグにあったひいおじいさんの日記によると、どうしても星空には行けなかったそうなのです。見えない何かに邪魔をされて、どうしても星の海には飛び出せなかったと」
「……わかりやすく順を追って話してくれるかな、チャット」
「もうちょっとです。バンエルティアを作った晶霊技師マクストンの見解によりますと、エターニア全体は星空から切り離された存在ではないかと記されていました。しかし、ひいおじいさんとマクストン技師は、星空へ行く手段は講じていたのです。そして、セイファートリングは消滅し、セレスティアは新しく星の海に浮かんだ。ということは……」
 すでに匙を投げたリッドは、新しいフルーツに手を伸ばしていた。ファラは一生懸命チャットの言葉の意味を咀嚼していたが、なんとか辿り着いた結論を自信なげに呟く。
「えっとつまり……その、アイフリードの遺産を使って、星の海に浮かんだセレスティアに行けるかもしれないっていうこと?」
「ええ!?」
 叫んだのはニナで、リッドはよく判らんと首を振っていた。
「さすがはボクが見込んだ子分ですね。見事な洞察力です。まさにその通り、バンエルティア本体が星の海を飛んでセレスティアに行けるかもしれないのですよ!」
 チャットが自信満々に断言する。
「はあぁ……」
 ファラは感心半分、途方もなさ半分で、大きく息を吐いた。やっぱりよく判らんとリッドが呟くのに、やはり足を踏んづけて黙らせる。これ以上チャットの話が続くと余計に訳が判らなくなりそうだった。
「なんだか……お話が……大きすぎてよく……」
 呆然とニナが呟くのに、リッドはひらひらと手を振った。
「大丈夫、オレにも何がなんだかさっぱりわからねえから」
「言葉通りですよ、リッドさん。バンエルティアで空を飛ぶのです!」
「……どうやって?」
「詳しい説明は省きますが、要は晶霊砲と同じ原理のエネルギーを攻撃のためではなく推進力として」
「ああもういい。わかった。わからないのがわかったからもういい」
 何ソレ、と呆れるファラにリッドは向き直った。
「おいファラ、あれ」
「ああ、うん」
 きょとんとする一同の前で、ファラは荷物検査を経てこの食堂まで持ち込んだ小さな鞄を膝の上で広げ、慎重に革のケースに収められたものを取りだした。
 ちょっと目を細めてそれを見つめてから、ファラはリッドに手渡す。受け取ったリッドは、アレンデ姫に手を出すようにうながした。
「レイスからの預かりものだ」
 アレンデが目を見張った。触れたらなくなってしまうのを恐れるかのように、おずおずとリッドから受け取ったものを認めるなり、アレンデは吐息を漏らした。
「……セイファートキー……」
「長いこと借りっぱなしで悪かったな。返すよ」
 キーだけではなく。レイスがリッドにセイファートキーと共に託した、エターニアを守りたいという想いも全部ひっくるめて。
「レイシス……」
 アレンデの震える唇が、ぽつりとその名を呟いた。そっとセイファートキーを触れさせた、その白い頬に一粒涙がこぼれる。
「本当に、ありがとうございました……。レイシスも、きっと、どこかで喜んでくれていますわ」
「オレ達に出来ることはもう終わった。レイスの願いを叶えるのは、あんたの番だよ」
 リッドの呟きに、アレンデはまだ涙の残った瞳を細めて微笑んだ。
「ええ……ええ、わたくし、必ず守ってみせますわ」
 リッドがそれにうなずいて返すのを、どこか誇らしいような気持ちで見ていたが、ファラはふと視線を感じて振り向いた。
 その先で、ニナがさっと俯く。
「……?」
 どうしたのと尋ねるより早く、チャットがその場にいきなりひっくり返った。激しい物音にアレンデもニナも腰を浮かす。
「チャット!?」
 慌てて駆け寄って抱き起こし、ファラは肩をすくめた。
「どうした!」
「……酔っ払っちゃったみたい。お酒の匂いがする」
 チャットはファラの腕の中で、赤い顔をして安らかな寝息を立てていた。リッドは肩をすくめてチャットを抱え上げる。
「仕方ねえなぁ……おい」
「うん」
 チャットの帽子をそっと取ってやってから、ファラはアレンデに向き直った。
「すみません、チャットの部屋まで誰かに案内していただけますか?」
 ほっとした様子で椅子に座り直したアレンデがうなずいた。
「皆さんお疲れでしょうし、今晩はここでお開きに致しましょうか。案内させますわね」
「ありがとうございます。じゃあニナさんも」
 言って振り向いたファラは、一瞬感じた何かに怪訝な表情を浮かべた。
「失礼いたします、アレンデ姫」
 ニナが丁寧に頭を下げるのにならって、同じように頭を下げてから、呼ばれた女官に先導されて歩いていくリッドを追いかける。
 なんだろう、さっきから。
 気のせいだろうか。でも二度も。
 確かにニナはファラを見ていたのに、何故視線を逸らすのだろう?

 

17

 チャットを部屋に連れて行き、ファラが持ち上げた布団の中に寝かしつけると、リッドは肩をすくめた。
「ったく、ジュースと酒間違えるか? フツー」
 チャットが使っていたグラスの中には、果実酒がわずかに底の方に残っていたのである。ジュースと間違えて普通に飲んでしまったらしい。
 ジュースのつもりで一気に飲み干せば、ひっくり返りもするだろう。
 寝台の枕元に置いたランプの火を吹き消してから、ファラは笑みをこぼした。
「仕方ないよ、きっとチャット、お酒の匂いがどんなものかも知らなかったんじゃない?」
「ま、よく考えたら……ええと、まだ十三だっけ? コイツ」
 首を傾げるリッドにファラは頷いた。誕生日が来てたらね、と付け加えてからリッドを部屋から押し出してそっと扉を閉める。
「十三歳かあ……わたし、何してたかな」
 考え込むファラをちょっと見下ろした。ファラたちに割り当てられた客室への階段に足をかけてリッドはファラから視線を外す。
「オレは狩りしてたな。今と同じだ」
「そう言えばわたしも、畑手伝ってた」
 くすっとファラが笑った。静まりかえった廊下を歩きながら、軽く伸びをして大きく息を吐く。
「それが普通だったもんね。時期が来たら種をまいて、手入れして、収穫して、貯蔵して……」
「何も変わらなければいいと思ってたよ」
 呟きは、ファラの耳に届いたらしかった。不思議そうに榛の瞳を瞬かせて、きょとんと見上げてくる。
「……あれ? リッド節は返上なの?」
 口癖のように今のままが一番と言い続けていた自分。茶化すように、ファラはそれを『リッド節』と名付けていたものだった。
 ファラは前に進みたがっていた。今思えば、それは彼女自身が抱え込んだ過去の傷に捕まってしまわない為に。
 けれどリッドはこのままがよかった。自分達がレグルスの丘に行ったことで父親や村人や、ファラの両親を失ってしまったから。これ以上大切なものを失いたくなかったから。
 無邪気に笑いかけてくる笑顔を、ぬくもりを、このまま留めておきたかったから。
「半分返上。しかたねえよ、まわりは変わって行くし――人だって変わる。変わって欲しくねえと思うものはあるけど、変わっちまうものもある」
 ファラの眉根が寄せられた。それの意味するところを見て取り、リッドは安心させるようにファラの頭をぽんぽんと軽く叩く。
「まあ、オレだってあんだけ色んな目にあえば考えもするさ」
「……それこそ風車が止まっちゃうよ」
 ファラが落ち込むといつもからかっていた言葉を返されて、リッドは顔をしかめた。
「しかしあれだな、珍しいと言えば、晩メシ何食ってんのかさっぱりわからなかったぞ。凝ってるのはともかく」
 軽い調子でそうぼやくと、不安そうに強張っていたファラの表情がほころんだ。
「だって、ご飯だけ作るのが仕事の人が居るんだよ? そりゃ、時間も手間もかけられるよ」
「けどオレもう飽きた。普通のメシがいい。焼いたベアの肉とかただのオムレツとか食いたい」
「……わがまま食欲魔人リッド」
「なんだよそれ」
「世界を救った勇者リッドとどっちがいい?」
「どっちもやめろ」
 なんでもないような、こんなやりとりが不思議と懐かしいような気さえした。
 失いたくないもののひとつだった。
 思い出もぬくもりも笑顔も、全てはここに辿り着く。
 失いたいのか? 手放したいのか?
 そんなわけはないのに。
「んじゃ、おやすみ」
 夕食の前に案内された部屋の扉に手をかけたファラが薄暗い灯りの中、笑うのが見えた。
 失いたいわけじゃない。けれど、人の心だけは無理矢理手に入れられるものじゃない。
 この距離を、伸ばせば手が触れられるだけのこの距離をファラが望んでいるのなら、踏み込むことはしたくない。
 彼女は望んでいないのがわかってしまうから、踏み込めない。
「ああ、おやすみ」
 笑い返して、リッドは向かいの客間に入って後ろ手に扉を閉めた。
 そのまま背中を扉にもたせかけて、ぐるりと部屋を見渡す。
 まだ灯りの入っていない豪華な客間は、ひどく寒々としていた。

 

18

 ファラが部屋に戻ると、ニナがまだ着替えもせずに待っていた。ぼんやりと寝台の端に腰掛けていたが、ファラが入ってくるなり立ち上がる。
「チャットさん、大丈夫でした?」
「うん。よく眠ってたから大丈夫だよ」
 笑ってみせると、ニナは良かったともう一度寝台に腰を下ろした。
「……リッドさんは?」
「部屋に戻ったよ。あーんな豪華な料理に飽きたとか言いながら」
 用意されていた簡単な部屋着を広げて感心しながら報告するファラに、ニナはやんわり微笑んだ。
「慣れてらっしゃらないんじゃないですか? 私だって食べた気がしませんもの、スプーンの順番ばかり気になって」
 ニナの見解に、思わず吹き出す。笑いながら、怪訝な表情のニナにひらひらと手を振ってみせた。
「基本的にリッドは、おなかいっぱい食べられたらそれでいい人だもの。でもまあ、そうだね、凝りすぎてて慣れてないってのはあるかなぁ」
「あら、それでしたらいくらでも作って差し上げるのに。私、自炊でしたから、料理も得意ですもの。リッドさんは何がお好きなのかしら」
 どこか夢見るようなニナの呟きに、ファラは肩をすくめた。
「リッドはオムレツが好きだよ、それかお肉。ひたすらお肉。お菓子も食べるけど、あんまり甘すぎるのは出された分しか食べな」
「ファラさんは、リッドさんがお好きなんですか?」
「――は?」
 唐突に耳に入った言葉に、ファラは素っ頓狂な声を上げた。
 なんだか、今ものすごい事を聞いたような気がする。
「ですから、ファラさんは、リッドさんをお好きですか?」
 ニナが真剣な表情で尋ねてきている。それは理解できている。
「……そりゃ……嫌いなわけは、……ないけど……」
 まだ呆然としたままファラは答えた。ニナが首を振る。
「そうではなくて、その……愛してらっしゃるんですか?」
 今度こそファラは絶句した。
 愛。お父さんがたまにお母さんにせがまれてやけっぱちのように言っていた言葉。メルディが話してくれた、恋物語ですれ違っていた想い。
「だって、そうでないなら、どうしてファラさんはそんなにリッドさんのそばにいるんですか?」
「……どうしてって……」
 ファラは口ごもった。それを聞きたいのはこっちだ。けれども、ニナはきっとファラを見据えたまま、言葉を続ける。
「もしリッドさんに好きな人が出来たときも、あなたはそうやって、まるで奥さんか何かのように、ずっとリッドさんのそばにいるんですか?」
「それは!」
「私はリッドさんのところに行きたいのに、そこにはファラさんが居るんです! もしファラさんがそれ以上を望まないんだったらどいてください、でないと私リッドさんの近くにも行けない!」
 瞬間、蘇ったのは、叔母が眉をひそめている顔。
 ――リッドと言い交わしたって本当かい?
 ――そうでないなら、お前、ちょっとは控えておきなさい、噂に……
「…………口を開けばみんなそうなんだ……。もーあったまきた!」
 エプロンの裾をギュッと握りしめてファラは憤然と顔を上げた。榛の瞳が怒りと当惑とで、豪華な灯りにきらきらと反射して煌めく。
「どうして傍にいちゃいけないの!? 何の権利があって、みんなわたしからリッドを取り上げるの!」
 いつだってリッドはそこにいてくれた。だから前向きで明るくて元気な、みんなが知ってるファラで居られた。
 なのにどうして。どうして今のままではいけないの?
 ファラの勢いに、一瞬ニナはたじろいだ。が、やはりローブの裾を細い指で握りしめて声を張り上げる。
「じゃあ、あなたに何の権利があってリッドさんのそばにべったりなんですか!? 同じリッドさんが好きって立場なら、私とファラさんは五分のはずじゃないですか!」
 好き? リッドを?
 かっと体中の血液が逆流したような感じがした。振り払うように頭を振る。
「誰も好きだなんて言ってない!」
「言ってるようなもんじゃないですか! 違うんですか? 違うんならどうして邪魔をするんですか!?」
「恋人じゃないといけないの!? 奥さんじゃなきゃ、リッドの心配もしちゃいけないわけ?」
「まるでそんな風に当たり前に振る舞ってらっしゃるのはファラさんじゃないですか! 幼なじみって、ただそれだけで!」
「幼なじみだよ、大切な! だいたいそれだけってなあに、勝手にそんな言葉でくくらないで! わたしがどれだけリッドに助けてもらってたか、どれだけ感謝してるか、あなたは知らないでしょう!?」
「それを大義名分にしないでくださいと言っているんです!」
 更に反論しようとファラが口を開いたその時、不意に扉が開いた。
「何事ですの?」
 布の擦れる音、そして凛とした柔らかな声。とっさにファラは跪いた。慌ててニナもそれに習う。
「アレンデ姫……。ごめんなさい、お騒がせしました」
 アレンデは首を振って、ひとまずファラ達に立ち上がるようにうながした。従った二人の顔をゆっくりと見渡して、小首を傾げる。
「城内でのもめ事は許しません。本来なら試合って決すべきですが、あなた方には不似合いですわね。何が原因なのです?」
「何って……」
 口論のせいで、すっかり混乱した記憶を辿る。最初は、確か。
「……料理です、アレンデ様。どちらがリッドさんに喜んでいただける料理を作れるかと」
 ファラは仰天して隣のニナを見た。そんな話だったか、あれは?
 しかし、アレンデはわかりました、とうなずく。
「では、それで決しなさい。勝負は明日、厨房の手配をしておきます。そうですわね、同じものを作ってリッドさんに食べ比べをしていただきましょう。……何がよろしいかしら?」
 考え込んだアレンデに、ニナは更に口を開いた。
「それでしたら、プレーンオムレツを。リッドさんの好物ですから」
「では、そうしましょう。誰か、料理長を執務室へ。わたしもこれから戻ります。それから」
 ニナの言葉に同意したアレンデが、背後に控えている女官に向かって指示をしている様子を呆然と見ていたファラは、ニナに名前を呼ばれてはっと我に返った。
「勝手に決めてすみません。けれと……リッドさんに選んでいただくのが一番でしょう?」
 ニナは、痛いほど真剣な瞳でファラを見つめていた。
 選ぶ。リッドが。どちらかを。
「リッドさんがどちらを選んでも、恨みっこなしです。選ばれなかったら、ファラさん、もう私の邪魔をしないで下さいね」
「……邪魔だなんて!」
 思わず声を高くしたファラに、アレンデが向き直る。
「どうかしまして?」
「――いえ」
 ファラは首を振った。今、いくら言葉を探しても出てこない。
「ファラさん、チャットさんが使ってらっしゃるお部屋に移って下さい。勝負の前日に、試合う両名が同室など、ルールに反しますから」
「……はい」
 それがアレンデの気遣いなのはわかった。だから、ファラはうなずいて荷物を取り上げた。
 手招くアレンデに従って、ニナを残して部屋を出ようとしたとき、アレンデの囁き声が耳に届いた。
「月の時刻に、わたしの部屋へいらして下さいな」
 驚いてアレンデを見る。が、その表情には、今囁かれた言葉の意味するところなど残っていなかった。

 

19

「ファラさん?」
 なるべく音を立てないように、先程チャットを寝かせた部屋に荷物を下ろしてランプをテーブルの上に置いたつもりだが、ファラは名前を呼ばれて振り向いた。
「どうしてファラさんがこの部屋に?」
 目をこすりながら、チャットが寝台の上に上半身を起こしている。ファラは寝台に歩み寄るとチャットの顔を覗き込んだ。
「もう平気?」
 尋ねるとしばらくチャットは考え込み、それから声をあげた。
「ああ! ボ、ボクまさか……」
「酔っ払っちゃったんだよ。気持ち悪かったりしない? 大丈夫?」
 平気ですと答えるチャットの声が弱い。ああ、とチャットは天井を仰いだ。
「大海賊アイフリードの子孫たるこのボクが、お酒ごときに酔っ払ってひっくり返るなんて……」
「……それは仕方ないよ」
 年齢を考えたら、そんなことは二の次なのに。あくまでアイフリードの子孫としての誇りにこだわるチャットがなんだかかわいくて、ファラはくすりと笑った。
 と、唐突にニナの言葉が脳裏に蘇る。
 幼なじみを大義名分にして。
 強い言葉に反発を覚えた。けれど、納得させられるだけの反論が出来ないのは何故だろう?
 幼なじみだから。だからそばにいる。大切な幼なじみだから、一緒にいたいと思う。
「――こだわってるのは、わたし、か」
「は?」
 帽子を探して起き上がろうとしたチャットに問い返され、ファラは我に返った。慌てて首を振って、それからチャットを寝具の中に押し込む。
「帽子は、ランプを置いてるテーブルの上。お水たくさん飲んで、もうちょっと休んでた方がいいよ、チャット」
「はあ……」
 納得していない様子ながらも頷くチャットの為に水をグラスへと注ぎ手渡すと、チャットは一息にそれを飲み干した。
 満足げにひとつ息を吐いてから、あらためてチャットは首を傾げる。
「それで、どうしてファラさんがここに?」
「あ、えっと……それは」
 どう説明したものだろうか。
 しばらく考えた末に、ファラは、ニナさんと喧嘩しちゃったの、とだけ呟いた。

 そしてリッドはぽかんと口を開けた。
 目の前の女官は、あくまで静かに頭を垂れて畏まっている。
「……なんだって?」
「ですから」
 問い返されても女官は怒るでもなく、淡々と先程と同じ口上を述べた。
「ファラ・エルステッドとニナ・ルーデンの両名が、オムレツ料理によって試合うことになりましたので、リッド・ハーシェルにはその審判をつとめるようにとの、アレンデ様の御言葉にございます」
 リッドは頭の中でその言葉を繰り返してみた。
「……なんで?」
「それはわたくしのあずかり知らぬことにございますれば、申し訳ございませんが」
 しばらく女官の言葉を反芻してから、リッドは頭を抱えた。
 何がどうなったらそういう話になるのか、さっぱり判らない。だいたいどうしてファラとニナの腕比べをする必要があって、審判をしなければならないのか。
 困惑するリッドをよそに、女官はあらためて口を開いた。
「勝負の公正のために、明日の昼、勝負開始までリッド様には両名との接触を禁ずとのことにございます。お呼びにあがりますので、それまでは軽はずみな行動を慎んでいただけますよう」
 もう一度深々と頭を下げて、女官は来たときと同じように静かに去っていった。
「……それはつまり、オレは理由を知らないままでいろってことか……?」
 閉ざされてしまったドアを女官の替わりに睨みながら、リッドは低く呟く。
 勝負ということは、対立したと言うことだ。けれどそもそも、ニナの同行を言いだしたのはファラで、仲良くしているように見えたのに。
 だいたいなんでオムレツで対決。
「わっかんねぇ……」
 寝台に背中から転がる。柔らかな寝具に沈み込みながら、リッドは瞼を閉じた。

「リッドさん、ファラさんがこっちに来てませんか?」
 このうえもない仏頂面をさげて寝台に座り込んでいるリッドを見るや、チャットはファラを捜すためとはいえここに来たことを後悔した。
 が、回れ右をするより早くリッドは肩をすくめて口を開く。
「来てねえよ。いねぇのか?」
「はい。ボクの部屋にいらして、隣で寝てたはずなんですが……どこ行ってしまったんでしょう」
 考え込みながら、触らぬ神に何とやらで部屋を出ていこうとするチャットに、リッドは声をかけた。
「そうだ、チャット、お前知らねえか? なんでこんなことになっちまったんだ?」
「どうしても何も……」
 チャットは唇を尖らせた。それを聞きたいのはチャットも同じだ。
 ファラが断片的に語ったことしかチャットは知らない。まだ、オージェのピアスは限られた人にしか機能しない。女官達が噂話をしているのはここに来る途中でもわかったが、内容までは聞き取れない。
「要は、ファラさんとニナさんと、どっちがリッドさんに気に入ってもらえるオムレツを作れるかってことでしょう?」
「だーかーら! なんでそんなことになるんだよ?」
「ボクもそれを聞きたいです」
 チャットは顔をしかめた。
「どうして言ってしわまないんですか? あなたが誰よりも何よりもファラさんを大切にしているのは、このボクにだって判るというのに」
 リッドの表情がさっと強張った。図星らしい。照れて怒鳴り散らされるかと内心ひやっとしたチャットの予想に反して、リッドは考え込むように頭を抱えた。
「……いろいろ、あるんだ……あるけど。ファラが、望んでねえから、かな」
 くぐもった声が洩れる。
「ファラさんが?」
 そうかなあ、とチャットは首を傾げた。
「例えば、お前、クィッキーに機械触られるの嫌だろう?」
「バンエルティアの船長として断固拒否します」
 言下に否定したチャットに、少しリッドが笑みを漏らしたようだった。
「けど、だからって。クィッキーがお前を嫌って近寄りもしなくなったら……それはそれでイヤじゃないか?」
「……それは……」
 言葉を濁すチャットに、リッドはそんなもんだよ、と呟いて顔を上げた。
 腕をおろしてあぐらをいたリッドは、器用にその膝の上に頬杖をついて、窓の外に広がる夜空に視線を向ける。
「あいつが、今の位置を変えることを望むんなら、俺は言えるだろうよ。けれど、あいつは今のままでいいと思ってる。俺も、それで別に構わない」
 静かな横顔を探るように見つめてから、チャットは溜息をついた。軽く両腕を上げて、お手上げのポーズを取る。
「……ボクには判りませんね。第三者的な立場から言わせていただければ、別に構わないようにはみえませんが」
 リッドが苦笑した。
「今のままがいいから、何もしない。俺は、そう思ってた。けど、今が一番いいから戦ってでも手に入れるってことを学んだ。それでも……あれだけは、絶対に傷つけられない。もう、一か八かの賭けはごめんだよ」
 処置なし、と、チャットは首を振った。
 全く、大人というモノは。なんて厄介なのだろう。

 

20

 言われたとおり、ファラは月の時刻にアレンデの部屋に向かった。
 誰かに咎められるのではないかと思っていたが、あらかじめ人払いがしてあったのか、部屋の近くには誰も居なかった。
 躊躇いがちに、小さくノックをする。
「お入りなさい」
 扉の向こうから聞こえてくる柔らかな声にうながされて、ファラは扉を押し開けた。
「時間通りですね」
 机に向かって何か書き物をしていたアレンデが、振り向いて羽根ペンを置いた。もう部屋着に着替えて、肩からカーデガンを羽織っている。
「あの、何か……」
 ファラがおずおずと尋ねると、アレンデは椅子から立ち上がった。
「そこのソファにどうぞ」
 手で示されたソファに腰掛けると、傍らのワゴンからアレンデはティーポットとカップを取り上げた。
「紅茶はお好き?」
「あ、はい」
「良かった、わたくしの大好きなお茶ですのよ」
 ゆるやかに波打った金髪が肩からこぼれないように気をつけながら、カップにお茶を注いで、アレンデはファラの前にそれを差し出した。
「どうぞ」
「……ありがとうございます」
 そっとカップに口をつける。まだ熱い紅茶をゆっくりと含むと、豊かな香りの湯気が頬にかかった。
 思わずほうっと息を吐く。そんなファラを、アレンデは小首を傾げて覗き込んだ。
「お話がしたかったのです。ごめんなさい、お疲れでしたでしょう?」
 慌てて首を振る。拍子に紅茶をこぼしかけて、ファラは慌ててカップを机の上に戻した。
「丈夫に出来てますから、こんなのは全然! あの、それより……すみません、ご迷惑をおかけして……」
「それこそ、そんなのは全然、ですわ」
 アレンデもまたカップを傾けながら微笑んだ。
 その微笑みは、初めてアレンデと会ったときとは大きく違うようで、けれど何も変わっていないようで、ファラは目をぱちぱちさせた。
「アレンデ姫……お変わりになられましたね」
 ファラの言葉にアレンデは驚いたようにその瞳を見張り、それから笑った。
「良い方に変わっていればよいのですが」
「変わられました! 最初にお会いしたときは……綺麗な方だなあって、そう思いましたけど……」
「あの頃のわたくしは、ただそこにあるだけのお飾りでしたわ」
 自嘲するでも蔑むでもなく、アレンデは淡々と言葉を紡いだ。カップの中の紅茶をスプーンでかき回す。
「ただ守られて、飾られて、何も知らず何も出来ずに。自分で思い返しても、なんて役に立たない女だったのだろうと思いますもの」
「そんなこと!」
 思わず立ち上がったファラを、アレンデは押し止めるように手を上げて制した。
「でも、わたくしは変わろうと思いましたわ。どうでしょう、少しは変われていますか?」
 にこりとアレンデが問いかけてくる。
 アレンデの微笑みが前と違う理由に思い当たって、ファラはすとんとソファに腰を下ろした。
 力強くなったんだ。自分の中にある力を信じる強さ。出来ることを成そうとする、意志の強さ。
「……お強くなられました」
「よかった! あなたにそう言っていただけると嬉しいです」
 胸をなでおろす仕草をして、それからアレンデはひたとファラを見据えた。
「全部が終わったはずなのに、あなたは世界を守られたのに、どうしてそんなにも哀しそうな顔をされているのです?」
 ファラは目を見開いた。
「リッドさんのことで、どうしてお連れの方と喧嘩をなさったりするんですか? あなたに、そんな必要はないはずでしょう?」
 心臓が跳ね上がる音がした。確かに聞こえたように思った。
 どうして。
 それは問い続けて、答えから逃げ続けてきている言葉。
 もう逃げられないのかもしれない。逃げてはいけないのかもしれない。
 膝の上に揃えて置いた拳をギュッと握りしめる。
「リッドは」
 絞り出した声がみっともなく震えた。軽く咳払いをして、ファラはもう一度口を開く。
「リッドは、大切な幼なじみで……傍にいるのが当たり前で。それが許されなくなるなんて、思ってもなかった」
 あたりまえに、当然に。疑うこともなく。必要としたときには、いつもおひさまのようにそこにあった、優しい瞳。
 ふと、アレンデが長い睫毛を伏せた。天井近くの燭台に灯された灯りを弾いて、一瞬その瞳が揺れる。
「……わたくしも、当たり前だと思っていました。あの方からいただいた愛情は真実まことのものであったのに、わたしくは、もっともっととねだるばかりで。好意の最たるものは恋だと思いこんで……。不思議なものですわね、あの方にもう二度と会うことが叶わない今の方が、あの方がどれほどわたくしを慈しんでくださっていたか、わかるんですもの」
「……レイス」
 ファラの呟きに、アレンデは微笑んで頷いた。
「あの方が愛したこの世界、このインフェリアを、守る。それが、あの方が……兄が、わたくしに残してくれた生き甲斐なのです」
 兄。
 聞こえた単語に思わずファラは目を丸くした。が、昔チャットが言った言葉を思い出す。
 レイスのアレンデへの態度は、まるで、肉親に接するような。
 きっと王家のごたごたにつながるのであろう深くを、知りたいとは思わなかった。ファラはひとつ頭を振って、溜め息をつく。
「大切なものを守るって、レイスもリッドも……そう言って、立ち向かってました」
 その背中をずっと見ていた。時には横に立って、前を見据える瞳を見上げていた。同じものを見たいとそう願った。
「あなたは? あなたも、そのためにオルバースの彼方まで行かれたのでしょう?」
 アレンデの言葉に、ファラは視線を落とした。
 あの、黒体の中に突入する前の晩、バンエルティアの展望室。
 大切なものを守りたいと言った、強い光を宿した空色の瞳。いっしょに行きたくて、思ったことはなんだった?
「リッドを守りたいって思いました……帰りたいって。何があっても、いっしょならへっちゃらだって。だって、リッドが居てくれたから、わたしはわたしでいられたのに。いつだって変わらずに。それが変わっちゃう……」
「――リッドさんを、愛しておられるのですね」
「っちが……! そんなんじゃ、だってわたしは」
 反射的に顔を上げる。アレンデはやはり、静かに微笑んでいた。
「わたしは?」
 そのまま問い返されて、ファラは続ける言葉を失った。
 違う? わたしは?
「人は、変われます。以前のわたくしでしたら、お父様にかわって執務をとろうだなんて、そんな大それたことは出来ないと思いこんでいましたわ。でも変わらない物もあるんです。……あの方を信じて、愛した気持ちは、きっとわたくしを支え続けますわ」
「……アレンデ姫……」
 まっすぐに、アレンデはファラを見つめていた。
 覚えがある。
 こんなふうにまっすぐに、切り込んでくるように、けれど暖かく見つめてきてくれた瞳を覚えている。アレンデと同じ、金色の髪をした、甘い香りを漂わせた空気を。
「ファラさんは? そうやって、頼りにし続けてきたものがありましたでしょう? 当たり前のように、決してなくなったりしないものだと、そう信じてきたものが」
 言葉は出なかった。
 かわりに、涙がこぼれた。