あおぞら

Tales,小説リファラ

5

 ランプの油が勿体ないので、よっぽどのことがない限りリッドは日が暮れるなり寝床に潜り込む。
 今日もいつもの通り、布団を口元まで引っ張り上げて、うとうととまどろんでいた。けれど、普段なら布団に入るなり眠りに落ちるのだが、何故か本格的な眠りは訪れない。
 旅をしていた頃なら神経を尖らせて、なかなか眠れないこともあったが、ここはラシュアンで自分の家の寝台の中なのだ。
(まだ、あの頃のままのつもりなのかもしれねぇな……どっかが)
 小さな苦笑を漏らして、寝返りを打とうとしたとき。
 壁の外側で動く気配にリッドは跳ね起きた。ほとんど物音も立てずに寝台から飛び降り、そばに置いてある剣を取り上げる。そのまま無駄のない動作で傍にある窓に向かって構えた。
 雲が出ているのか、窓の向こうは星明かりだけの真っ暗闇だった。しかし、目ではない部分が、何かの気配がその暗闇にあることを告げている。
 体に染み込んだ習慣で起き上がったが、このラシュアンで一体どんなものが襲って来るというのだ?
 二階にあたるここまで登ってきているのだから盗賊かモンスターか、それともと忙しく考える。問答無用で窓を開けて出るべきだろうかと思ったとき、その窓ガラスはこつこつと叩かれた。
「リッド、起きてる?」
 聞き漏らしそうな程かすかな、けれども聞き間違えようのない声にリッドはがくりと脱力した。
 剣を無造作に床へ放り出し、机に乗り上げて窓の掛け金を外す。
 ゆっくり窓を開けてやると、身軽な動作で人影が窓枠に飛び上がってきた。
「――何やってるんだよ。二階だぞここは」
 何故か痛みを訴える額を抑えながら心底から呆れた声を絞り出す。セレスティアで手に入れた、地晶霊の宿った石をランプがわりに首にかけた真夜中の侵入者は、おぼろげな光の輪の中でわずかに頬を膨らませた。
「だって、玄関からじゃ起きないかと思って」
 言ってから、ファラはにこりと笑顔を浮かべた。
「ひさしぶり!」
「……ああ、そうだな」
 どこかでそう言われたことがあるような気がして、リッドは曖昧に答えた。そしてすぐに思い当たる。
 メルディが降ってきた日。あの見張り台で、ファラはこんな風に笑ってひさしぶりだと言ったのだ。
「で、いったいなんだよ夜中……に……」
 最後まで言い終えることが出来ずに、リッドは口をつぐむ。窓枠に腰掛けるようにしているファラの背中に、旅の間にすっかり見慣れた、ファラの荷物入れを見つけたからだ。
 嫌な予感が背中を走り抜けた。
「ねえリッド、まだ乗船パスとか残してるよね?」
 あくまでもにこにことファラは笑っている。その笑顔が怖い。とてつもなく怖い。
「あ……ああ、たぶんまだひとまとめにしたまま……だと思うけど?」
 小さく後退りながら答えると、ファラはぱちんと手を打ち合わせた。
「よかった! じゃあ、セイファートキーもまだ持ってるでしょう? あれ、お城に返しに行った方が良くない?」
「あ。そういやそっか」
 リッドは後ろ頭を掻いた。こっちに帰ってきてずっと、元通りの生活を手に入れるためのことに手一杯で、そんなことすっかり忘れていた。
 よく考えたら、あのときオルバース界面にいた自分達はともかく、シルエシカに協力したりするためにセレスティアへ渡っていた人たちはどうなったのかも知らない。この村にはそんな情報は入ってこない。
「後かたづけはきちんとしなくちゃ。アレンデ姫も、きっと話を聞きたがってるよ。だって、あの時何があったか知ってるのはわたしたちだけなんだから」
「そりゃそうだけど……」
 リッドはファラの背負ってる鞄を指さした。
「なんでそんなに問答無用で旅支度なんだよ」
 ファラは、さも当然というように大きく胸を張る。
「早ければ早いほどいいんだってば、こういうことは。さあ、さっさと支度したした!」
 今すぐかよとかまだ眠いとか何で俺がとかもうちょっと考えてからにしろとか、反論したいことは山ほどあったが、結局リッドには何も言えなかった。
 ファラは笑っている。けれどその笑顔は、ある意味幼い頃からとても見慣れたものだったのだ。
 笑っていなければ、今にも泣きだしてしまいそうな。そういう時の、ファラの作られた笑顔。
 ひとつだけ息を吐くと、リッドは机から離れた。
「入れよ。用意するから」
「うん」
 さして大きくない窓だが、ファラは苦もなく部屋の内側へ滑り込んでくる。床に降り立ったのを確認して、リッドは窓を閉めた。
 ランプを一番小さい灯りに調整して、旅の間使っていた頃そのままの荷物袋に簡単に少しの着替えなどを放り込む。その間にファラが簡単に部屋を片づけてくれていた。
 ぎゅっと袋の口を縛り上げて立ち上がる。声をかけようと姿を探すが、ファラはもう扉に手をかけていた。
「で、取り敢えずミンツかよ?」
「船が出てるといいけれど。でも大丈夫だよ、イケるイケる!」
「はいはい」
 何故か逆らえないその言葉に頷いてランプを吹き消し、リッドは玄関の扉を開けた。
 戸締まりをして外に出てから、村を出るまで二人ともほとんど音を立てなかった。今日修理を終えたばかりの門をくぐりながら、リッドはふと首を傾げる。
(……なんかこれじゃ、夜逃げみたいじゃねえか)
 別に何も悪いことなどしてないのに。
 肩を落として、弾んだ足どりで夜道を行くファラの隣に追いつくと、リッドはおい、と声をかけた。
「おばさんにはちゃんと言ってきたんだろうな?」
「だいじょーぶ、ちょっと留守にしますってちゃんと伝言残してきたから。じゃがいもの取り入れも終わったし、しばらくはそんなに忙しくないし」
 何がどうだいじょうぶなのか、リッドは尋ねないでおくことにした。

 

6

 ラシュアンから延びる街道を歩き続け、うっすらと空が色づいてきた頃、少し先を歩いていたファラが突然立ち止まった。
「どうした?」
 同じように足を止め、帰る気になってくれたのかと、期待を込めて尋ねる。
 が、ファラは振り返ってリッドを伺うように首を傾げた。
「道場に寄ってもいいかな? 師範にはお世話になったし、事情も話してあるから。きっと心配してると思うんだ」
 儚い夢であった。
「……その調子でいったら、ミンツでキールの知り合いに会ってモルルで博士に会って、インフェリアでは」
「屁理屈をこねないの!」
 指折り数え上げるリッドに、ファラは憤然と腰に手を当てて叫ぶ。
「さ、ちょっと寄り道だけど構わない構わない!」
「構えよ……」
 力無いリッドの抗議は完全に無視された。
 ファラは背中の荷物を背負い直し、川沿いの道をずれてレグルス道場の方へと足を向けた。
 明るくなっていく空を横に見ながら、黙々と足を進める。
 肩を並べたファラが、地晶霊の宿った石を首から外しながら、ねえ、と呟いた。
「ん?」
「わたしたち、たくさんの人に助けられたんだね」
 思わずファラの顔を見下ろす。その榛の瞳は、今まさに光に覆われようとする光景を眺めていた。
「そうだな」
 ファラから、視線を転じて同じように辺りを見渡す。
 山に抱かれるようにして広がる大地。色を取り戻すかのように目覚めていく森。
「リッドもメルディも、キールもチャットもフォッグも……みんないっぱい頑張ったけど、きっと、どれが欠けても今はなかったんだろうなぁ……。そう思うと、なんだかすごくない?」
「そのためにあんな所まで行ったんじゃねえか」
「そりゃあそうだけど! すごいじゃない、やっぱり」
 肩をすくめて、それでもリッドは目を細めた。
 すごいこと。
 今ここに、在るという奇跡。
 そっと手を伸ばして、濃緑のおかっぱ頭を軽く小突く。
「誰かさんも頑張ったしな」
 驚いたように小突かれた場所に手をやったファラは、ちょっとためらってからしかめっ面を作った。
「誰かさんは、背中けっ飛ばさないと動いてくれませんでしたからね」
「……俺は調子の悪い機械かよ?」
 セレスティアで幾度となく見た光景を思い出してリッドがぼやくと、ファラは笑いながら足を速める。
「ほら、見えてきたよ!」
 こちらを振り返ったファラの指が示す先には、確かに道場が道の向こうに見えていた。
 大階段の下で、リッドは足を止めた。
「おいファラ」
「なに?」
 もう登りかけていたファラが足を止めて振り返る。
「やっぱ、俺ここで待ってるから、お前ひとりで行ってこい」
 珍しく目線が上の方にあるせいか、それとも言ってることに後ろめたさがあるのか、リッドはファラを拝むように片手を上げた。
 やれやれとでも言いたげに、ファラは溜息をつく。
「……そんなに入門話蒸し返されるのが嫌なの?」
「そんな気ねえもん」
 あっさりと意図を見抜かれても、リッドは強い調子で断言した。
 何故だかリッドの腕を見込んで、入門しないか跡取りはどうかとしきりに誘ってくれるあのご老体が、リッドは苦手だった。努力することはあの頃ほど嫌ではないが、出来ることならお誘いはお断りしたい。
 そして、既に何度も断っている以上、いまいち顔があわせづらいのだった。
「だから、もし話が長くなりそうで、師範が諦めてるようだったら呼びに来い。俺、宿屋で待ってるから」
 諦め半分、呆れ半分で、ファラはもう一度大きく息を吐いた。
「……わかりました。でも、ミンツに行く前に、一度御挨拶には行こうね? いくらなんでも顔ぐらいお見せしないと失礼だよ」
「了解」
 ほっと息を吐いて、リッドは手を上げて身を翻す。
 背後で、ったくもうとかファラが呟いているのが聞こえた。

 

 宿代の半分ほどを渡して、人を待つ間ロビーに居させて欲しいと頼むと、主人は愛想良く頷いて簡単な朝食まで出してくれた。
 よく考えたら朝御飯もまだだったので、ありがたく頂き、これまた出してくれたお茶を飲み、ロビーに置いてあった本棚から一番絵が多かった昆虫図鑑を選び、それを眺めながらしばらくうとうとしたが、まだファラは戻ってこない。
 ひょっとしたら、同じようにご馳走になったりしているのだろうが、既に太陽はかなり高いところまで昇っている。
 いくらなんでも、そろそろ出発しないとミンツに着く前に野宿になってしまう。
 仕方なくリッドは腰を上げた。カウンターにいる主人に礼を述べて、宿を出る。
「……ったく」
 こんなことなら、多少の気まずさは置いておいても、一緒に行ってさっさと切り上げるべきだっただろうか。
 宿の角を曲がって、道場の方に向かう。と、ファラが足どりも軽くこちらに向かってきているのが見えた。ファラも気付いて、ぶんぶんと手を振る。
「あ、リッドー!」
「おせぇよ、何し」
 そこでリッドは言葉を切った。さっと顔色を変えたファラがいきなり駆け出したのである。
「おい!?」
 脇をすり抜けるファラを追って振り向く。と、ファラの向かっている先に人と、そして今まさにそれに襲いかかろうとしているワーベアの姿が見えた。
 躊躇いなく剣を抜き放ちながら、地を蹴る。慣れた動作。
「危ない!」
 叫んだファラが人の方に飛びついたのが見えた。その背中を掠めるようにしてワーベアの爪が振り下ろされる。ファラは、そのまま庇うように抱きしめて地面を転がった。
 突然なくなった獲物を探してか、ワーベアが唸りながらファラ達の方に向き直る。が、足を踏み出す前にリッドの剣がその心臓を一突きにした。
 ひゅっと短く息を吐いて、リッドは剣をワーベアから抜いて後ろに飛び退く。重い地響きを立てて、ワーベアは前のめりに倒れ込んだ。
「無事か?」
 勢いが良かったのか、だいぶ離れたところにいるファラに駆け寄る。
「うん、わたしは大丈夫」
 言いながら、ファラは抱え込んでいた人を抱き起こした。
「あなたは大丈夫? ごめんね、とっさだったから突き飛ばしたりして……ケガはない?」
 問われて、今まで固く閉じていた瞳をおそるおそる上げたその女の人は、青い服に白のローブ、そして白布のチョーカー。見覚えのある服装だ。
「……なんでミンツの学士さんがこんなとこに」
「きゃああ!!」
 リッドが疑問を呟いた瞬間、その人は悲鳴を上げた。あまりの大声に、リッドはまだモンスターが居るのかと背後を振り返った。
「い、今――モンスターが、私、ああびっくりした……!」
「もう心配ないよ、大丈夫。怖かったよね?」
 言いながら、ファラがへたり込んでいる人のローブや服をぱたぱたと払ってやっている。
「……びっくりしたのはこっちだぜ」
「リッドは黙ってなさい! 普通の人はびっくりするんだよ、こんなこと慣れてないんだから」
「へいへい」
 お前も普通じゃないんだな、という突っ込みは賢明にも口にせず、リッドは腰のポーチから手布を取りだして剣を拭い、鞘に収めた。
「立てる?」
「あ、はい……」
 ファラに助けられて、立ち上がったその人は、背中の真ん中程まで垂らした黒い髪を撫でつけながら、ファラにぺこりと頭を下げた。
「ありがとうございます、あなたが来てくれなかったら私……」
「いいのいいの! ケガはない?」
「ええ……、ちょっと、あちこち痛いですけど……」
「ごめんね、逃げてって言ってる暇がなくって」
「そんな! きっと、足がすくんで動けませんでした」
 そんなやりとりを聞きながら、リッドは先程剣を抜くときに放り出した荷物を拾いに行った。
 ワーベアの爪がファラの背を掠めたときに感じた、あの氷のような感覚を思い出す。胸の奥から息を絞り出して、リッドはひとつ頭を振った。
「あのう」
 声をかけられて振り向くと、ファラに付き添われるようにしてさっきの人が立っている。
「本当に、ありがとうございました……なんて御礼を言えばいいのか」
 丁寧に頭を下げられ、リッドは肩をすくめた。
「気にすんな。コイツの無鉄砲なお節介は今に始まったことじゃねえ――痛っ!」
 左腕に走った鋭い痛みに慌てて脇を見やると、にっこり笑いながらファラがわざわざ肉の部分を薄くつまんで捻り上げていた。
「……お昼ご飯は抜きでいいんだね?」
「なんでそうなるんだよ! 悪かった放せ痛い!」
 くすくすと笑う声が聞こえて、リッドもファラも知らない人の前だったことを思い出した。
 二人の視線に気付いたその人は、また吹きだした。
「あ、ごめんなさい――でも、ほっとして、おかしくて」
「そ、そう? えっとあの……ミンツの学士さん、だよね? どうしてここに?」
 ファラの問いにちょっと目を丸くして、そしてその人は深々ともう一度頭を下げた。
「助けていただいて、お名前もお聞きしないで、私ってば……私、ニナ・ルーデンと申します。ミンツで水晶霊学を学んでおります。こちらに、水晶霊術士の方がいらして、その方にお会いするために」
「ああ! パオロさんね」
 納得したようにファラが頷いた。リッドもその名前には覚えがある。確か、川を下るときに手助けしてくれた人だ。
「わたしはファラ。ファラ・エルステッド。こっちはリッド・ハーシェル」
 ファラが名乗った瞬間、ニナはそれこそ凍り付いた。
「あれ? ニナさん?」
 ひらひらと、ファラは固まってしまったニナの目の前でひらひらと手を振る。はっと我に返ったニナは、震える唇を何度かわななかせ、そうしてようやくのことで口を開いた。
「……あの……ひょっとして、キール・ツァイベルと一緒に……セレスティアに……」
 ファラとリッドは顔を見合わせた。ミンツでは有名な事実になってしまっていたらしい。無理もないだろう、あの一件に関する研究や調査に取り組んでいたのだから。
 それなら隠してもごまかしても仕方ない。ファラが頷き、リッドは後ろ頭をかきながら答えた。
「ええ、まあ、その……そうなんだけど」
「お会いできて光栄です!」
 叫ぶなりニナはがっしとリッドの手を取った。
「私、どうして気付かなかったのかしら……何度か、大学であなた方をお見かけしていたのに! もしあなた方が戻られたら報せるようにとおふれも出てて、ああ、それであんなにモンスターにも慣れてらっしゃって!」
 勢いに押されて、リッドは生返事をしながらじりじり後退るが、ニナは気にせずリッドが下がる分だけ前に出る。
「でも本当に、エターニアを救った勇者と称えられてる方に助けていただけるなんて、感激です、私ずっと憧れてたんです!」
 なおも後退りながら、助けを求めるようにファラの方を見やったが、目が合うなりファラは視線をそらせてしまった。
 リッドは眉をひそめる。
 ニナはまだ感極まった様子で話し続けていたが、そのニナの肘をファラがつついた。
 口をつぐんだニナにファラは笑いかける。
「パオロさんなら道場に居たし、わたしたちも道場に用事があるの。一緒に行かない?」
「あ、はい」
 頷いたニナは慌てて自分の荷物をあらためはじめた。すぐに目的のものを見つけたらしく、ほっと息を吐くニナをうながして、ファラは道場へ足を向けた。
 と、ファラが肩越しにリッドの方へと振り向く。
「リッドも、忘れてないよね? 師範に、御挨拶には行くって約束したよね?」
「……はい」
 よろしいと頷くファラは、いつもの通りに見えて、リッドは首を傾げながらも二人の後を追った。

 

8

 ミンツから王都に行くと聞いたニナは、顔を輝かせた。
「それなら、私も連れて行ってくださいませんか?」
「連れて……って、王都まで?」
「はい」
 ファラの問いに、ニナはこっくりと首を縦に振った。
「実は、私がパオロさんにお会いしに行ったのは、クレーメルケイジをお返しするためだったんです」
 ファラが納得したように頷いた。黒体に乗り込む前、ガレノスやゾシモスの提案によって、エターニア中からクレーメルケイジと晶霊を集めていたはずだ。
「ファラさんはご存知でしょうけど、王命によってケイジと晶霊は集められました。けれど、セレスティアに送る前にセイファートリングが消えてしまったものがいくつか残って……そのうちのひとつが、パオロさんのものだったんです」
「そっか。ここは、王都から離れてるもんね。間に合わなかったんだ」
「はい」
 ニナは頷くと、右手を上げて風にもっていかれる髪を抑えた。
「ケイジを全部届けたら、王立天文台に報告に行けるんです。たとえ仕えることが出来なくても、あそこの蔵書を見ることが出来るならと思って、私その役目に志願して。パオロさんで最後だったんです、だから王都に行けるんですけど、やっぱり……ひとりは、不安で」
「うーん……」
 ファラは考え込んだ。確かに、ニナ一人は危険だ。初級の水晶霊術は使えると言っていたが、それは「モンスターと戦える」という意味ではない。
 ファラは、正面に向き直ってリッドを見上げた。
「どうしよっか、リッド?」
「どうしよっかじゃねえ!」
 川の流れにちっぽけな筏をのせるために、必死の形相で竿と格闘しているリッドは間髪入れずに叫んだ。
 水音と風を切る音で、叫ばないと声が後ろに届かないのだ。
「手伝えよ! いくら流れはゆるくてもなあ、俺一人にやらせるか!?」
 振り返らないままのリッドの抗議に、筏の後ろの方にちょこんとニナと並んで腰掛けたファラはあくまで笑顔で首を傾げる。
「お昼抜きと一人で漕ぐのとどっちがいいかって、ちゃんと訊いたよ? わたし」
「……なんでお節介をお節介と言って怒られな……いやなんでもない」
 言いかけた途中で不穏な気配を背中に感じ取ったのか、リッドは途中で曖昧に言葉をぼかした。
「あのう……私、お手伝いしましょうか?」
 木を組んでるロープの結び目を、手の色が真っ白になるほど力を込めて掴みながら、ニナがおずおずと申し出るのをファラは首を振って遮る。
「無理だよ、けっこう力がいるんだ。こういうのは適材適所、出来る人がやればいいんだから」
「おいこらそこの出来る奴。言ってることとやってることが違うぞ」
「お昼抜きでいいの?」
 やはり笑顔のファラに、リッドは再び口をつぐんだ。
 びゅうびゅうと風を切り、たまに跳ね上がる水しぶきに小さな悲鳴を上げながら、ニナは辺りを見回して目を輝かせている。
「私、小さい頃からずっとミンツに居ましたから、海はよく行きましたけど……こんな風に川を下るなんてはじめて」
 ファラは笑った。確かに、ラシュアンを出たばかりの頃、まだ言葉の通じないメルディを連れてミンツへ行こうとしていた頃は、この川下りですら大冒険だった。
 それがセレスティアへ行き、オルバース界面を行き、セイファートリングの真ん中へ乗り込み。
 まだ見ぬ所へ。例え何が待っていても、行きたいと思うところへ。
「ね、リッド。ニナさんも一緒に王都に行っていいでしょ?」
 ファラの言葉に、ニナはファラを見た。その驚いたような顔に、にっこり笑い返して、改めて舵を取るリッドに向かって声を張り上げる。
「人数は多い方が楽しいじゃない。ね?」
「お前がそう決めたんなら、俺が止めたって無駄だろうが……っと!」
 突然視界に現れた岩を避けるために竿を握る手に力を込め、リッドはそこで言葉を切ったが、ファラは肩をすくめた。
 本当にダメなら、リッドはこんな言い方をしない。
「じゃ、決定。王都までよろしく、ニナさん」
 ぱっと顔を輝かせて、ニナは体中に力の入ったぎこちない動作で頭を下げた。
「ありがとうございます、ファラさん! リッドさんも……私にできることでしたら、なんでもお手伝いしますから!」
「んなこたいいから、しっかり掴まってろよ、滝が来る! ファラ、頼んだぜ!」
「……滝?」
 呆然と呟くニナを抱え込むようにして、ファラはぴったり筏に身を伏せた。
 いきなり空中に放り出される、あの感覚と、そして急激な落下感。ニナが声にならない悲鳴を上げているのが耳に届いたが、ファラはむしろわくわくしていた。
 いつかきっとラシュアンに帰ろう。それは、あの戦いの間、自分を支え続けていた呪文だった。
 けれど、今こうやって旅に出てみると、わくわくする。
 水面に着地した衝撃に一瞬息を詰めて、揺れが落ち着いたのを確認してそろそろと体を起こす。真っ先に探した、見慣れた背中は、大きく溜息をついていた。
 リッドが肩越しに振り返ってくる。
「大丈夫か、ファラ?」
 不意に泣きたくなった。
 幼い頃から、何度も何度も繰り返されてきた言葉。
 そのたびに、晴れた空の瞳に向かって大丈夫だと胸を張った。
 そうすると、本当に大丈夫だと思えた。
「……うん」
 飛沫をあびて濡れた髪が、頬に張り付いている。それを払いながら、そっとリッドから視線を外して、かたかた震えているニナの肩を抱いて起こしてやった。

 

9

 ミンツに辿り着いた三人は、とりあえず大学へと向かった。ニナが報告に行かなければならなかったからだ。
 その間、リッドとファラは、大学へ向かう道の木の陰に隠れるようにして腰を下ろしていた。
 ニナの話を総合すると、リッド達はミンツでは知られた存在になってしまっているという。面倒くさいのは嫌だとリッドは断言し、ファラも目立つのはちょっと遠慮したかった。
 悪いことをしたわけではない。けれど、あの旅を詳しく話してくれと請われても、思い出すには、語るには心のどこかが痛むことが多すぎる。
 もちろん、事実だけを述べることは簡単だ。ネレイドが十年前にある人の体を乗っ取って、この世界を無に帰すことを企みました。それを知った女の子がセレスティアからインフェリアへやってきて、偶然居合わせたわたしたちが大晶霊を集めながらセレスティアに渡り、誤解から戦争になりかけたインフェリアとセレスティアは協力することになりました。そしてわたしたちは大晶霊達の協力を得て黒体の中に入って、ネレイドを追い返しました。その影響でセイファートリングはなくなりました。
 けれど、何故と問われたら。
 答えられない。みんなが、痛みを抱えて、それでも大事なものを、大切な人の未来を守りたくて戦った。
 それを口に出せるほどに、まだ傷はふさがっていない。
 アレンデ姫に報告に行かないと、と、リッドを連れ出した。あの、村でのぎくしゃくとした生活からもう一度しきり直したかったのも確かだけれども、アレンデ姫に会わないとと思ったのも確かなのだ。
 姫もまた、大切なものを失った痛みを抱える人なのだから。その痛みと、優しい思い出を抱きしめて、この世界を守ろうとした人なのだから。
 ぎゅっと、膝をかかえた腕に力を込めた瞬間、横手からぽこん、と、軽い拳骨が降ってきてファラは我に返った。
「眉間にシワ」
 同じ木に背中を預けていたリッドが、精一杯しかめっ面を作って自分の眉間を指さしている。
 ファラは思わず吹きだした。
「わたしそんな変な顔してないよ」
「いーやしてたね。こーんな顔」
 ますます顔を歪めるリッドにけらけら笑いながら、ファラは向こうからやってくるニナを見つけて手を振った。
「ニナさん、こっちこっち!」
 ぱたぱたと、ニナがこちらに駆けてくる。その走り慣れていない様子は、もう一人の幼なじみを思い出させて、ファラは少し目を細めた。
「お待たせ、しました」
 肩で息をしながら、乱れた髪を押さえてニナが一礼する。
「そんなに急がなくてもいいのに」
 ファラの言葉に、ニナは首を振った。
「いえ、お待たせしては、申し訳が……」
「船に間に合えばいいんだから、待たせても構わねえんだよ。しかし、使えるのかよこの乗船パス」
 荷物の中から乗船パスを取り出しながら、リッドが呟く。
 ファラはニナを木陰に座らせて水筒を渡していたが、不思議そうにリッドを見上げた。
「なんで? だってあれ、別に身分証明でも何でも……」
「忘れたのかよ、一度お尋ね者になってるんだぜ?」
 顔をしかめて言うリッドに、軽く唇を湿らせたニナが控えめに口を挟む。
「それでしたら、心配ないと思います。あなた方はインフェリアの英雄として、アレンデ姫から王都への召喚がかかってますから。名乗ればすぐに乗船出来るかと」
「それもなんかイヤだな……。背中がかゆくなるぜ」
 リッドは露骨に嫌な顔をして身震いした。ニナは一瞬ぽかんとして、そして微笑む。
「リッドさんは、あまり英雄らしくないんですね――あ、えっと……」
 慌てて口を押さえるニナに、リッドはむしろふんぞり返るようにして断言した。
「だって俺そんなえらいもんじゃねえもん」
「そうそう。リッドなんて、最後までご飯のことしか考えてなかったんだから」
「人を胃袋の固まりみたいに言うなよ」
 横からちゃかしたファラに、リッドが乗船パスを放り投げる。
「もう! なくしたらどうするの」
 前の通りだ。
 なんでもない、そんなやりとりに内心ほっとしながら、水筒を受け取ろうとニナを振り返り、ファラは一瞬声をかけるのをためらった。
 リッドを見ているニナの瞳に、どこかで見たことのあるような輝きがあった。
「……ニナさん、お水もういいかな?」
「あ、はい! ありがとうございます」
 水筒をファラに手渡して、ニナは立ち上がった。ぱたぱたとローブをはたいて、服に付いた草や汚れを落とす。
 そして、立ったまま待っていたリッドに笑いかけた。
「私はもう大丈夫ですから。港の方に行きましょう、リッドさん」
「ああ。いくぞ、ファラ」
「あ、うん」
 荷物を背負って立ち上がったが、ファラはリッドの横に並ぼうとはしなかった。
 違和感。
 ラシュアンの村でも感じていた、何か、ちくちくとした、乾いた違和感。
 旅に出たら消えると思っていたのに。
 あの頃のように、リッドと一緒に世界を駆けまわっていれば、なくなると思っていたのに。
 ぽつんと溜息をもらして、ファラは荷物を背負い直した。
 港はすぐそこだ。

 

10

 波止場に行くと、乗船パスを見せるより先にインフェリア兵が驚愕の表情を貼り付けて詰め所に飛んでいってしまった。
「顔で覚えられてんのかよ……」
 嫌そうに呟くリッドに、ファラは笑った。
「だって、ホラ。インフェリア中に指名手配かかってたんだよ、わたしたち」
 インフェリア兵も、乗り込んだ後の船員達も、不気味なくらいに丁重だった。
 ニナの言ったとおり、アレンデ姫の名で触れが出ているらしく、料金も取られずに一等船室に通された。
「船って揺れるんですね……」
 船旅は初めてだというニナが、物珍しそうに窓から海原を眺めてしみじみと呟いた。
「今日は風がいいから、結構揺れるね」
 水差しに慎重に蓋をかぶせながらファラが言う。海の上での水は貴重だ。リッドは寝台の上に転がっていたが、そんなファラを横目で見やった。
「何言ってんだよ、これが普通なんだよ。あの船が普通じゃねえんだ」
「あ、そか」
 頷いた。キールあたりなら酔いそうだと、そんな考えがちらりとよぎって笑みが漏れる。
 そんなファラにニナが不思議そうな視線を向けていた。
「バンエルティア――あ、わたしたちが乗ってた船ね、それはちょっと変わった船だったから、普通に進んでる分にはあまり揺れなかったんだ」
 さっきのリッドの言葉を補うように説明する。ニナはほとほと感心したように溜息をついた。
「色々と――話は伝わってくるんですけれども。やっぱり、その船もセレスティアのものなのですか?」
「……うんまあそうなんだけど……セレスティアの中でも特殊だったというか……」
 なんせ二千年の間、交流がなかったとされているインフェリアとセレスティアを股に掛けて荒らし回っていたという大海賊アイフリードの船である。普通であるわけがない。
 それにしても、交流がないと聞いていたのに。実際には、アイフリードの妻は額にエラーラがなかったといい、バリルはインフェリアに渡っている。
 知らないところで、歴史から消えていることはたくさんあるんだろうな、と、ぼんやりとファラは考えた。
 自分達が経験したことは、いったいどんな風に残されるのだろう?
 と、リッドが立ち上がった。
「んじゃ、俺甲板にでも行って来る」
「あ、私もご一緒してよろしいですか?」
 行ってらっしゃい、と、ファラが言うより早くニナが立ち上がった。リッドが肩をすくめる。
「いいけど、何するわけでもないぜ?」
「甲板に連れて行ってくださるだけでもかまいませんから」
 熱心に頼み込むニナに、リッドは指でついてこいよの仕草をした。顔を輝かせたニナがその隣に並んだ。
「いってきますね、ファラさん」
「あ、いってらっしゃい」
 笑顔で扉の向こうに消えたニナに手を振って、ファラは広い船室にぽつんと取り残された。
 手をおろすのを忘れていたことに気付いて、のろのろと膝の上に落とす。
 そのまま、近くにあった寝台に突っ伏した。
「いったい、どうしたの、わたし……」
 リッドが時々気遣わしげな視線を向けているのがわかる。ということは、やっぱりどこか変なのだ。
 おかしいのは判る。ボタンを掛け違えたみたいに、何かがずれている。
 問題は、どこが、どうずれてるかわからないと言うこと。
「ああやめやめ!」
 叫んでファラは勢いよく身を起こした。何かすることはないかと部屋中を見渡す。
 陸を行くわけではないから、辺りに気を配らなくてもいい。料理も勝手に出てくるから作らなくてもいい。掃除もきちんとされているからしなくてもいい。水が余ってるわけではないから洗濯も出来ない。
 二日もすればインフェリアだから、何もわざわざ荷物をほどくほどのこともない。
「……うわ、ダメだ……」
 ひとしきり考えてから、ひとつも思いつけずにファラはもう一度ベッドに突っ伏した。
「お昼寝でも、しよっかな……」
 呟いて、肌触りのいい上掛けに頬を埋める。瞳を閉じて、大きく息を吐く。
 今は何も考えたくなかった。

11

 甲板に上がったニナは小さく歓声を上げた後、息を呑んでぐるっと海原を見渡した。
「すごい……波が後ろにとんでいくみたい」
「いやまあ……そうだな」
 エアリアルボードといいバンエルティアといい、普通でないものにさんざん乗り慣れた身としては、こんなん遅いほうだと思ったが、リッドは口にはしなかった。
 知らないものを知ることが大好きな人種に、きちんと説明する自信はさっぱりなかったのだ。
 きちんと積んである樽のひとつに背をもたせかけて座り込む。ぼんやりと空を眺めていると、ニナがその視界にいきなり現れた。
「……何か用か?」
 しばらく何か言いかけては口を閉ざしていたニナが、リッドの隣を指さした。
「あの、隣いいですか?」
「別に俺のものじゃないし、いいんじゃねえ?」
 そうでした、と、笑いながらニナが腰を下ろす。白いローブが風に持って行かれそうになるのを手で押さえて、ニナも空を見上げた。
「雲も早く流れるんですね」
「そうだな」
 曖昧に相槌をうって、リッドは息を吸い込んだ。潮の匂い。バンエルティアのエンジン音がしないのが不思議に思えてくる。
「オルバース界面がなくなって、色が少し変わったみたいですね」
 沈黙が重いのか、ニナが問いかけてくる。リッドは頭の後ろで両腕を組んで丁度いい塩梅におさまってから頷いた。
「まあな。あそこも海みたいなもんだったから……キールだったらなんか理屈つけてくれそうだが、俺にはわからねえんだ。悪いな」
「そんな」
 ニナが目を見張った。
「それは……知りたいと思いますけど、でも、何のお話だっていいんです」
 生真面目な口調に、リッドは苦笑する。
「俺に話させると、狩りと食い物の話しかしねえらしいぜ、ファラに言わせたら」
 微妙な間があった。ためらうように首を傾げて、ニナは口を開いた。
「ファラさんは……いい方ですね。優しくて、勇敢で」
「お節介で無鉄砲でそそっかしいって言うんだアイツのは」
 顔をしかめて言うリッドに、ニナがくすくす笑う。
「笑い事じゃないぜ。後始末するのはいつも俺なんだから」
「そんなに、長い間一緒に?」
「幼なじみだからな。物心つく前から知ってるって奴だよ」
 しばらくニナが黙り込んだ。リッドも口をつぐんだ。
 目を閉じていても、瞼越しに降りそそいでくる光を感じる。風と太陽と潮の匂い。いつもなら、無条件に心地よいはずのひとときが、何か足らない。
 原因は分かっている。ファラがおかしいのが気にかかっているのだ。
 旅に出ようと言いに来たときから、何かおかしかった。
 あの時は、ラシュアンで流れているあの噂のせいだろうと思っていた。それなら、ラシュアンを出て噂から離れて、ほとぼりも冷めれば大丈夫だろうと踏んでいたのに。
 シゼルの城に向かう前、確かに流れていたあの空気は、今のファラからは感じられない。
 守りたかった存在。大切な人。
 それは変わらないのに。
 あの笑顔を、もう二度と曇らせないですむと、そう思っていたのに。
「幼なじみ、なんですか?」
 ニナの問いに我に返る。目を開けて隣に視線をやると、ニナがまっすぐに見つめてきていた。
「ファラか? だからそう言ったじゃねえか」
「……そうですね」
 ニナが笑って空を見上げたので、リッドはもう一度目を閉じた。