ちかいごと

ZTP,小説ニクジュディ

◆ 4 ◆ 〜AFTER〜

 ジュディの腹部には銃創がある。その横には手術の痕の直線も残っている。
 その傷で入院していた間に、ジュディはプロポーズされた。一生ただの最高の相棒でも、一生傍に居られるならそれで良いと思いながら、相棒以外にはなれないのかと焦がれる心を押し隠すのに苦労していた彼女に、当の相棒は言ったのだ。結婚しようと。
 いろんな段取りをすっ飛ばして、ジュディはニコラス・P・ワイルドの妻となった。書類だけはすぐに出したいとニックが言い張って、ジュディが折れた。
 あの時、体が動いてしまったのは半ば以上反射だった。彼が傷つく所なんて見たくないという、ただのジュディの我が儘だった。だからニックが気にする必要なんてまるでないと思うのだが、皮肉や斜めに構えた笑顔の内側に底抜けの優しさを抱えてる彼には、気にしないなんて不可能だということは分かっていた。
 無茶なことをして一時は危険な状態になったことが、彼をとても不安にさせたのだと分かるから、それは責任を取るとかそういう負い目からの言葉ではないと伝わったから、ジュディは頷いた。
 まだ起き上がっているのはつらい時期だったから、ベッドに横たわったまま書類にサインして、愛してるよとキスを受けた。父はジュージューが幸せならそれが一番だと言いながら、そっちで骨を埋めてしまうのかいと号泣し、母はあらあらやっとなのねおめでとう、と笑ってくれた。
 まだ独りで暮らすのは大変だろうというニックの勧めもあって、退院と同時に彼の部屋に引っ越した。休職扱いになったジュディはリハビリに励む日々の中でバニーバロウでささやかな式を挙げ、ズートピアではごくごく内輪向けのパーティをした。
 とても幸福そうに緑色の瞳を細めて、世界一綺麗だよとニックはキスをしてくれた。耳まで真っ赤に染めたジュディに、祝福とからかいの拍手が贈られたのは、二ヶ月ほど前の話だ。
 そう、プロポーズの時にニックが宣言した『本気を出すことにした』口説き文句は、今でも続いていた。彼を縛り付けていた何かのしがらみを破壊し尽くしてしまったらしいニックときたら、ジュディのキャパシティの限界を軽々と超えてくるのだ。
 普段通りの軽口と、恋人扱いの甘い台詞を緩急取り混ぜてくるのだから、「またそんな調子の良いこと言って」とスルーするしか防御法を知らないジュディにはひとたまりもない。そもそも、とても機転の利く口のうまいキツネが『君に俺が本気だって実感してもらわないとな』なんて理由でひたすら口説いてくるのだ。勝てるはずがない。結婚したんだからもう口説く必要ないでしょ、と言った夜のことは思い出すとフリーズするので、記憶に蓋をしている。
 ジュディだって嬉しくないわけではない。あのニックが、とても幸せそうに笑ってくれる。優しい目で、落ち着いた低い声で、ジュディと呼んでくれる。触れるだけの甘いキスも、奪い尽くすような深いキスも、たまの例外を除けばひたすらジュディの体を彼が気遣いながら重ねる夜も、何もかも愛と思いやりに満ちている。
 だからこそジュディは決意していた。今夜はニックには言い渡しておく事がある。

 

「ただいま、スイートハート! さあ、今夜は君の復職の前祝いだ!」
 仕事から帰宅するなり彼が差し出した一抱えもある花束に、ジュディは目を丸くした。思わず押し付けられるままに受け取ったが、抱えると視界さえ遮られてしまうほどの花の大群だ。結婚式のブーケはこうしてみると小さかったのだと実感する。
 何気なく呼吸しただけで、圧倒的な芳香が胸を満たした。
「綺麗……それに、すごく良い香りがする」
「オッタートン夫妻の選り抜きだ。さすがだよ、とても君に似合ってる。復職おめでとう、ジュディ」
 そう言ってジュディの後頭部に手をやったニックは、反対の手で自分の額をぴしゃりと叩いた。
「しまったな、キスしたいが花を潰しそうだ。痛恨のミスだ」
「何それ」
 吹き出したジュディは、花束をそっと脇の棚に置き、ニックのネクタイを掴んで背伸びをした。心得たタイミングで、ニックが屈む。頬にキスを贈ると、反対側に返ってきた。最後に唇同士をついばんで、ジュディは微笑む。
「ありがとう、ニック。あなたがたくさん助けてくれたおかげだわ」
「何、君がいないこの数カ月というもの、仕事がやりづらくて仕方なかったんでね。相棒の早期復帰に尽力するのは当然だろう?」
「そう、それなんだけど、ニック。バディは続行なの? 署長から何か聞いている?」
 物置からバケツを取り出しにかかっていたニックが、きょとんとジュディを見つめ返した。
「署長からは続行と聞いてる。ただし公私混同のないようにと。まあプライベートをそのまま職場に持ち込まないなんて当たり前だけどな。解散だと思ってたから拍子抜けだ」
「そうなの……」
 ジュディもまた拍子抜けしていた。
解散だと思っていたし、続行だとしても公私は分けるようにと釘を刺すつもりでいたのだ。そうだった、彼はとことんふざけているようでそういう所はちゃんと弁えているキツネだった。最近の恋人扱いに翻弄されるあまり、ニックを見くびっていたようで申し訳ない気持ちになる。
 さっき脇に置いた花束を抱え直す。ごめんなさい、と口の中で呟いたのは、バケツに水をためていたニックには聞こえていなかっただろう。
「だから職場では君にキスしないし、肩も抱かないし、ニンジンって呼ぶ。気持ちを切り替えるのには良さそうだからな。ああ、だからって俺が君を世界で一番愛してるってことは忘れないでくれよ、ジュディ?」
 こちらにウインクをよこすニックに、ついつい可愛くない答えを返しそうになったが、ジュディは花束をもう一度抱きしめ直してこらえた。すう、と花の香りごと息を吸う。自然と顔はほころんだ。
「ええ、ニック。私もあなたを世界で一番愛してるけど、制服を着てる間は最高の相棒として頼りにしてるって忘れないでね?」
 瞬きをひとつしたニックは、ごん、と蛇口に添えていた手に額を打ち付けた。
「ちょ、どうしたのニック!?」
「……あのなぁ、ジュディ。俺は今、ちゃんと気持ちを切り替えるための手順を頭の中でシミュレーションしたばかりなんだぞ」
「? だからニンジンって呼ぶんでしょ?」
 はあ、と重いため息を吐いて、ニックは蛇口をひねって水を止める。身体を起こすとジュディの手から花束を取り上げ、切り口を包んでいる銀紙を外してバケツの中に突っ込んだ。そんな彼を訝しげに眺めていたジュディは、そのままひょいっと抱え上げられて小さな悲鳴を上げる。
「いいか、そういう可愛いことをとびっきり可愛い顔で言うのはやめてくれ。いや、してくれて良いけれど時と場合を選んでくれ。もうほんとすごい破壊力だから今はやめてくれ。せっかく君が用意してくれたディナーなんかより、君を食べるってごねたくなる」
 高々と抱え上げられて彼を見下ろす形になっているジュディは、一気に顔が熱くなるのを自覚した。
 今日もニックは出勤だというのに、昨夜の彼ときたら手加減抜きだった。ジュディの傷痕に口づけるところから始めるニックは、最後には同じように傷痕に口づけるのが常だが、昨夜は彼女に最後の記憶がない。リハビリは十分にした、持久走のタイムだってほぼ戻るくらいに回復したというのに、だ!
「それはもう昨夜、復職の前日にはまずいってあなたが! 言うから!!」
「そうとも、元気な君が戻ってくるのを第一分署の連中だって待ってるんだからな。寝不足の君が登場するのはまずい」
「だったら自重してちょうだい、ニック・ワイルド!」
「だから君にも自重を求めてるんだよ、いいか奥さん。俺は君が大好きで、君が頑張りたい時は背中を押したいが、君が可愛ければ食べたくなるんだよ。今夜はキスと俺専用のウサギ抱き枕で我慢できるように、ほどほどにしてくれ。頼むから」
「どうしてあなたはそうやって息を吐くように恥ずかしいことを言ってもよくて、私が素直になるのはダメなの!?」
 ジュディの抗議に、ニックはとても真剣な顔になった。
「俺の理性がまるで信用ならないからに決まってる」
「真顔で情けないこと断言しないで」
 口の端をつまんで思い切り左右に引っ張ったジュディに、「いひゃいいひゃいひょひゅりい」と抗議するニックに幾分か溜飲が下がったので、彼女は刑の執行を中止して床へと飛び降りた。
 そのついでに、暖かな毛色の額に小さくキスを落としておく。帰宅の間ずっと抱えていたからか、彼からも花の匂いがした。

「さ、私の作ったディナーを食べてもらうわよ、旦那様。その花はテーブルの横に飾って、ワインで乾杯といきましょうよ」
「はいはい。仰せの通りに、マイ・レディ?」

―了―