ちかいごと

ZTP,小説ニクジュディ

◆ 2 ◆

 翌日、朝礼で顔を合わせたジュディはいつも通りの顔だった。活力と自信に満ちた、はち切れんばかりのエネルギーを小さな身体に詰め込んだ、勇敢で優しいウサギ。
「おはよう、ニック! あら、制服クリーニングに出したの?」
 大型動物用の大きな椅子を、ふたりで分け合って座るのはいつものことだ。ジュディがスペースを空けてくれた場所によじ登って、ニックは机に頬杖をついた。
「ああ、ちょっと派手に汚れたんでね。油は自分じゃ太刀打ちできない」
「そうねえ、繊維が特殊だから手洗いになっちゃうし」
 袋から取り出したばかりの制服は、糊が効きすぎて若干ごわごわする。後でちょっと階段ダッシュでもやってこなれさせよう、と思いながらニックはジュディに相づちを打ち、あくびをもらした。ジュディが心配そうに瞬かせたブルーベリーの瞳でのぞき込んでくる。
「どうしたの、ニック。二日酔い? もしかして昨日疲れてた?」
「いいや、ちょっと寝付きが悪くてね。エアコンの温度調整間違えた」
「やだもう、風邪引かないでよ?」
 ニックの言い分をすんなり受け入れて、ジュディの手がニックの耳と手に触れた。体温を確認してるらしい。心配性だね相棒、と笑って、彼も長い耳を撫で返してやる。
 くすぐったそうに首をすくめたジュディは、きらっといたずらに目を輝かせた。
「ねえニック、笑わないでよ? 私、あなたの制服姿ってすっごく好きだわ。昨夜のスーツよりよっぽど似合ってる。もうちょっとネクタイをきちんと締めると、なお良いと思うの」
「なんだ、どうしたホップス巡査? そんなに褒めても残業は手伝わないぞ」
「あら、どうしてバレたのかしら」
 すました顔の相棒を肘でつつくとつつき返された。さらにつつき返してつつかれるのを繰り返す。お前らなぁ、と横でマクホーンが呆れたように呟いているが、そこまで含めて比較的いつものことだ。
「よし、揃ってるな!」
 バリトンを響かせて署長がドアを開けたのに合わせて、つつき合いをやめたふたりはそれぞれ正面に向き直った。
 今日もより良い世界のために。そして願わくば、今日は相棒がしょんぼりしたりしないように。
 ネクタイはちょっと締めておくことにした。

 

 レインフォレストの繁華街で銃撃が発生、という一報が入ったのは昼過ぎのパトロール時のことだった。撃たれたのは銃の密売グループの幹部で、どうやら小規模ながら抗争らしい、と続報が入る。
 受信したデータからニックがノートパソコンで開いたマップをジュディが確認し、ハンドルを握り直す。パトランプとサイレンを用意したニックは、その流れで無線機ではなく私用の携帯電話を取りだした。
「ニック」
「協定の範囲内だろ、ニンジン。ミスタービッグは素人を巻き込むのを好まない、俺たちは情報が欲しい」
 咎めるような相棒の声に返事をしながら、久しぶりの電話番号を呼び出す。ツーコールで相手は出た。
『無関係だぞ』
 互いに名乗りもしないままの第一声に、ニックは喉で笑った。
「知っていますよ、ミスター。あなたならもっとスマートだ」
『褒めていないということには気づいておけ。娘は』
「運転中。スピーカーに切り替えます」
 ズートピアの闇の一部を牛耳っているホッキョクトガリネズミのボスは、愛娘の命の恩人であるジュディを家族同然に扱っている。過去に命だけは見逃してもらうへまをやらかしたニックも、その余録に預かる形で関係は改善されつつあった。
 スピーカーでの通話に切り替えたタイミングを見計らって、ジュディが運転しながらも神妙に口を開いた。
「ごめんなさい、ミスター。簡単にあなたを頼るべきではないのだけど」
『かまわんよ、娘や。単独での暴走だと聞いている。増援はない』
「その代わりに、単独行動の犯人は追い詰められてるということね?」
『その通りだ。あのグループは長距離の狙撃用は扱っていない。ハンドガン、それにサブマシンガンがメインだな』
 ニックはしきりに転送されてくるデータを追いながらミスタービッグの言葉に舌打ちをもらした。まさにサブマシンガンが撃たれている。と、無線に繋いであるイヤホンに飛び込んできた情報を、ニックはキーボードを叩きながら相棒と電話の向こうに告げた。
「加害者側の素性判明。コリー・ディンドレッド、タイリクオオカミだと」
『三分待て。メールへ送る』
「ありがとう、ミスター」
『また遊びに来るが良い。終わりのない育児に疲れ気味の娘が、お茶の相手をほしがっているのでな』
「近いうちに是非と伝えて」
『承知した』
 短い通話の三分後には、携帯に加害者の写真と雑多な情報が送られてきた。十代のうちに家出してグループ入りだの左利きだの彼女と別れたばかりだの、彼女は抗争相手の娘だっただのと、必要最小限ながら関係のありそうなものばかりだった。
「実は敵だった悲恋なのかしら」
「スパイだったかもしれないぞ」
「それじゃロマンスが足りないわ」
 注意深くハンドルを切りながら、ジュディが軽口を叩いてみせる。なるべくフラットな状態に気分を持って行くために、わざとふざけてみせる手法だ。初めて出会った頃から打てば響く応酬をする方ではあったが、すっかり俺に似て来ちゃってまあ、とニックは内心で肩をすくめる。
「――好きなひとに、好きだと言えなくなるのは、悲しいわよね」
 ぽつりとそんなことを呟いた彼女に、「オーケイ、ダーリン」とニックはノートパソコンの画面をスクロールさせながら応じた。
「さしあたってはまだそれを言いたいのかどうか、奴さんの口から白状させるところからだな」
「そうね、無力化できればベストだわ。ああそうだ! 防弾の装備は後ろよ、ニック。出しておいて」
「了解」
 サブマシンガン相手に防弾ベストがどこまで通じるだろうか、と案じながら、ニックはふたり分の装備を引きずり出して点検を始めた。

 包囲され、説得を続けられていたオオカミは、サブマシンガンの弾切れを起こした。次に取り出したのはハンドガンだった。
 少し離れた高所から情報のやりとりを担当していたニックとジュディは、透明強化盾の範囲からは外れた所に立っていた。散弾の届く範囲外だったからだ。
 キツネの警官が女連れかよ生意気だ、と叫んだオオカミが撃鉄を起こして引き金に指をかける。
 なんだよその八つ当たり。ニックが眉をひそめるよりも、小さな灰色のウサギが目の前に飛び出して腕を広げた方が早かった。
 改造されていたハンドガンから飛び出た銃弾は、予測よりもずっと長く跳んだ。

 

「ワイルド!」
 病院の廊下だというのにどすどすと地響きを立ててやってきたのは、クロサイのマクホーンだった。手術中の赤いランプを見据えていたニックは横目で彼を確認すると、もう一度視線を戻した。
「一時間前に報告した通りだ。ジュディ・ホップス巡査は右腹部に被弾。動脈をかすめた模様。出血多量で輸血および緊急開腹手術中」
「終わらんのか」
「早くて二時間と」
 短い返答に、無口ながらも気は優しい方である同僚は、ニックの目線にあわせるようにして巨体をかがめた。手には見慣れたファイルがある。
「署長から、お前の出張および直帰命令書だ。明日は早番に変更だ、報告業務後、状況次第で休暇も許すと」
「感謝すると伝えてくれ」
 ニックは命令書を受け取り、マクホーンが差し出したペンを借りて受諾書にサインをした。ペンとファイルを返却してから、再び彼は視線を扉に戻す。
「ホップスの実家には」
「連絡した。緊急手術の同意が必要だったからな。おふくろさんとすぐ上の姉さんがこっちに向かってる」
「そうか……」
 と、ランプが消えた。中で静かに動く音が聞こえる。そのまま隣のICUへと動く気配にマクホーンはそちらへ動き、ニックは扉から出てきた医師を捕まえた。
「ジュディの、彼女の容態はどうですか!?」
「ご家族ですか?」
 ワラビーの医師に尋ねられて、ニックは息を呑んだ。首を左右に振る。
「同僚です。彼女の実家はバニーバロウなので、家族は今こちらに向かってる最中で」
「そうですか。それでは詳しいことはお話できませんが、朝までに意識を取り戻すかどうかが山かと」
 ICUと廊下を区切るガラス面に張り付いていたマクホーンが駆け寄ってきた理由を、ニックは腕を掴まれて背を支えられたことでやっと悟った。その場に崩れそうになったのだ。
「応急手当は的確でしたが、出血が多かった。脳へのダメージ次第です。現状ではなんとも申し上げにくい」
 嘘だ。喉まで出かかった言葉は、声にはならなかった。
「もちろん、全力を尽くします。ご家族が見えたら、ナースセンターに連絡してください。では、失礼を」
 ふらふらと、ICUのガラス壁に近寄る。手と額をガラスについてのぞき込んだ先には、たくさんの管やケーブルによって機械に繋がれたジュディが、手術着のまま横たわっていた。
 長い睫はぴくりとも動かない。酸素マスクに覆われた鼻先がかすかに動いているのが見えるだけ。まるで宝物を呼ぶかのように彼の名を呼んでくれる口も、静かに閉ざされたままだ。
 マクホーンが廊下のソファに座るように勧めてくれるのを別世界の事のように感じながら、ニックは濃紺の制服をきつく握りしめる。
 彼女が好きだと言ってくれた制服は、糊の代わりにジュディの血で赤黒く固まっていた。
 防弾ベストの点検は完璧にしたはずだ。ジュディのことだ、着用手順にミスなどしていないはず。それでも、凶弾はニックを庇うように飛び出したジュディの腹部を貫いたのだ。
 防弾ベストのわずかな隙間。よほど凄腕のスナイパーでもない限り、ただの偶然だろう。なんて偶然だ。そんな偶然は要らなかった。偶然なんてものは、ウサギの新米警官がアイスクリーム屋で困っているキツネの詐欺師を見かける、そんなものだけでいいのだ。
 空調が効いているはずの病院の廊下が、ひどく冷たい。末端から感覚が失われていく。
 ああ、覚えがある。この感覚を知っている。
 喪失だ。
「ワイルド」
 肩に大きな手が乗った感覚で、ニックは我に返った。
「気持ちは分かるが、一度帰って着替えたらどうだ? ICUなら家族以外は入室も出来ない。お前がそんな姿でここに張り付いていたら、目が覚めたホップスが驚く」
 入室も出来ない。その言葉にニックは緑色の瞳を見開いた。
 家族じゃないから、詳しい容態も聞けなかった。家族じゃないから、青白い顔で横たわっているジュディの手を握ってやることも出来ない。
 誰よりも傍に居たのに。朝も昼も夜も、同じ時間を過ごして、笑って怒ってじゃれて喧嘩して、また笑い合っていたのに。
 彼女はニックを庇って、あのガラスの向こうに居るのに。
 家族じゃない。たったそれだけのことで。

 力任せに拳を膝へ叩き付けたが、まったく痛みを覚えなかった。