カラメリゼ

Gust,小説ロアルカ

アルトネリコ2の瑠伽ルートED後、クロアと瑠伽の独占欲のお話。

※個人の妄想と解釈をもとにした恋愛要素があります

お好きな方はどうぞ!


 

 -1-

 

 焔の御子、ルカ・トゥルーリーワースは人気者である。
 第33代御子として新生大鐘堂を牽引し続けたクローシェ・レーテル・パスタリエが持つカリスマとは別の魅力で、メタ・ファルスに暮らす人々から愛されていた。
 それは彼女がダイバーズセラピストとして働いていたラクシャクで最も顕著である。次いで、クローシェの親衛隊を構成するI.P.D.は全員ルカによる治療を受けて助かっていることもあり、彼女らのネットワークによって「救って下さったルカ様を助け、守って下さったクローシェ様を護る」というスローガンはメタ・ファルス全土に広く根を張り巡らせている。
 そして、大鐘堂内部でも、兵士や女官などそこで出会う人皆にいつもにこにこと笑顔で挨拶をし、時にはねぎらいの言葉をかけ明るい雰囲気をその場に持ち込むルカはやはり大半の人に好かれていた。
 実質、このメタ・ファルスを統べるクローシェの傍らに補佐として立つ一方で、わずかな時間を縫って街に出て歌を歌い、I.P.D.の治療を含めたセラピストも出来る限りは引き受けている。八面六臂の活躍ぶりにもちろんやっかみや心ない声もあるが、それでもルカはクローシェと並んで市民から愛され慕われる存在であった。
 ただし、そのルカには常に側近くで彼女を護り続ける恋人が居るのも一部では知られた話で、主に若い男性陣からは彼女を慕う言葉のあとに「けどなぁ」というため息が続くのであった。

 彼は唐突に顔を上げた。クラスタ系民族の特徴である、肩口で切りそろえられた黒髪が揺れる。
「どうかしたのか、クロア」
 同僚から名を呼ばれ、クロア・バーテルは曖昧に頭を振った。
「いや、なんだか……寒気が」
「風邪か? 気をつけろよ、お前ここんとこ休みなしで働きづめだし」
 ぽん、と肩を一つ叩いて去っていく同僚に礼を返してから、クロアは再び宮殿の廊下を歩き始めた。体調に不良は感じていないのに、背中を走り抜けた悪寒のようなものはなんだったのかと訝しみながら、その歩調は淀みない。
 向かうのは御子の執務室だ。大鐘堂騎士隊御子室付き、それが今のクロアの肩書きだった。もちろん構成員は他にも居るが、騎士隊長レグリスとクローシェの推挙によりクロアが中心となって組織されている。
 つい最近まで下っ端であり、なおかつ一度は大鐘堂を離れた身としては破格の扱いだ。だがしかし、メタファリカを為した二人の御子を護り続けた彼の功績は明らかであり、やはり一部のやっかみを除けばいつかは彼のような騎士にと憧れる声も少なくはない。
 ただ近頃は、そのやっかみに違う種類のものが増えてきた。御子は騎士の任命に個人的な感情を挟むべきではないだろうというものと、あのルカ様の恋人だなどと認められん、というものだ。
 前者の声が聞こえてくるようになった頃、クロアは一度クローシェに具申したことがある。このままでも良いものでしょうか、クローシェ様やルカが悪く言われるくらいなら異動をと申し出たクロアに、クローシェはいっそ冷ややかな一瞥を投げたものだった。
「クロア、あなたは御子を護る騎士であるとこの私に誓ったはず。よもやその誓いを忘れ、騎士としての本分から外れたのではないでしょうね」
 とんでもない、と頭を垂れるクロアに、御子は重々しく頷いた。
「ならば煩わしい外聞などに惑わされず、私とルカを護り抜きなさい。それが何よりの証立てです」
 感謝の意を込めてますます深く頭を下げたクロアであったが、共に傷つきやすく繊細な内面を持ち合わせている彼女達に余計な心労をかけたくないという考えは、今もって変わらない。
 そして、後者のやっかみに関しては、そんなにうらやましがられるほどのものではないだろう、というのがクロアの率直な感想だった。
 確かに、ルカとクロアの間柄は世間でいうところの恋人同士だ。それは間違いない。その事実に不服や不満があろうはずもない。
 文字通り艱難辛苦を乗り越え、互いに傷ついて傷つけられて、それでも手を取り合って支え合ってここまでくることができた最愛の少女を、これからもずっと傍で護り続けることがクロアの望みであり、誇りでもある。
 だがしかし、たとえばパスタリアの公園で見かけるカップル達の方が、よっぽどうらやましがられる恋人同士なのではないかと彼は思うのだ。
「お疲れ様です、クロア殿」
 御子室の前で控えていた騎士が礼をする。お疲れ様、と返してクロアは扉をノックした。
「クロアです。入室してもよろしいでしょうか」
「お入りなさい」
 扉越しでも凛と響く声に、クロアはノブに手を掛けて扉を開いた。頭を下げてから深紅の絨毯が引かれた室内に入る。
 執務机には、窓から差し込む陽射しに豊かな金の髪を煙らせている御子が就いている。その傍らには教皇家のトップであり、クローシェの筆頭補佐を務めるタルガーナが控えていた。
「ではタルガーナ、移住計画の方はこのままで。ああそう、新生みくりの森の視察記録はミント区の区長にも回して差し上げて頂戴」
「は」
 短く答えてから、タルガーナは書類の束を揃えながらクロアに笑顔を向けた。
「ようクロア。相変わらず忙しそうだな」
「それはタルガーナもだろう」
「たまには手合わせくらい付き合ってくれ。こう毎日机仕事ばかりでは、身体が鈍っていかん」
 苦笑混じりの言葉に、恐らく冷めきっているであろう紅茶のカップを口元に運んでいたクローシェが「あら」と反応した。
「貴方、まだそんな元気が有り余っていたの? それなら」
「いえいえ御子君、過剰なお心遣いはご遠慮致します」
 優雅に礼をとったタルガーナと、新しいファイルを引っ張り出そうとしていたクローシェの間に一瞬の間がおかれ、次いで小さな笑い声が響く。
 相変わらず主導権はクローシェが握っているようだが、二人の間では冗談も交わされる程には良い関係が築かれつつあるようだ。出来る限りのことは全て自身の手でこなそうとするクローシェには、この何をやらせても有能な男がついているのはいい助けだろう。
 御子とクロアに辞去の挨拶を述べて退室したタルガーナを見送った後、クローシェはカップの中身を空けてから騎士に向き直った。
「クロア、明日のスケジュールのことですが」
「はい」
 クロアは頭の中で明日の予定を展開した。朝から大鐘堂の主要陣による会議、昼はパスタリエ市内視察兼市長との会食と言う名の意見交換会。それが終わり次第第4次調査隊派遣会議の為大鐘堂へ帰還。夜、第三次メタファリカ測量調査終了の祝いと報告会を兼ねた会食。
「市長が体調を崩されたとかで、会食が延期になりました。なので、会議をそちらの時間に回して、朝の予定を空けます。それに伴って、私とルカはちょっと今晩からラクシャクへ行くので、護衛をお願いするわね」
「ラクシャクへ?」
 問い返して、クロアは首を傾げた。
「ええ。さーしゃや、空猫やノノと連絡がとれたの。久しぶりに女の子だけで集まろうという話でまとまったので、行き帰りの護衛をお願いします」
 笑顔で語るクローシェに、クロアは黙然と頷いた。
 つまり、約四十日ぶりにまとまった空き時間がとれたというのに、ルカはまたもやクローシェに占領されたと、そういうことだ。
「さーしゃに会うのもどれくらいぶりかしら、楽しみだわ。ああ、飛空挺の手配はできています。夕食の前に出ますから、そのつもりで」
「わかりました。それでは、ルカの護衛に合流します」
「ええ、よろしく。ああ、ルカに今の話を伝えておいて」
 一礼して、クロアは退出した。お気をつけて、と立ち番の隊員が見送ってくれる。
 そろそろルカは、特別な行事がない限り日課としているいI.P.D.達との交流と治療を兼ねたセラピが終わる頃だ。他の騎士隊員が側で待機しているが、やはり街中を歩く時はどんな危険があるかわからない。
 仕事で恋人の側にいつでも居られるなんて贅沢なご身分だな、と、昨夜すれ違いざまに投げつけられた皮肉が脳裏に蘇る。
 こんな些細な理由でもつけないと、ルカの側にいられる時間が激減するこの環境が羨ましいなら代わってやろういくらでも、とクロアは内心で呟きながら門へと向かって足を急がせた。
 確かに、騎士としての仕事は彼自身の意思で誇りをもって選択したものだ。よって、騎士である以上の様々な困難や出来事は全て彼自身に責がある。それを誰かに転嫁する気はクロアにない。
 かといって、騎士を辞めて私人に徹したとして、多忙を極め、なおかつ人気者であちこちひっぱりだこで、隙あらば彼女に迫ろうとする親友は熱心に便りを寄越し、しかも姉を溺愛している妹が公私ともにべったりくっついているルカと一緒に居る時間が今より多くひねり出せるのかと考えると、答えは否であろう。それもかなり高い確率で。
 ダイブ屋に入ると、一瞬緊張した同僚がクロアを認めて礼をした。彼らをねぎらってから、クロアは楽しそうに話をしている一団の方へと歩み寄る。
「ルカ」
 呼びかけると、輪の中心にいた黒髪の少女がぱっと振り返った。極上の笑顔で、「クロア」と彼女が名を呼ぶ。お迎えの登場らしいことを悟った少女達が残念そうな顔をするのに、ルカは申し訳なさそうに肩をすくめた。
「明日は無理だけど、明後日はまた来られると思うから」
「はい、クローシェ様にもよろしくお伝え下さい」
「もちろんだよっ。じゃ、またね」
 名残惜しげに手を振りながらやってきたルカが、彼を見上げて首を傾げた。
「どうかしたの、クロア」
 何がだ、と問い返そうとしたクロアに手を伸ばしたルカが、人差し指でクロアの眉間をつついた。
 意識はしていなかったが、険しくなっていたらしい。ルカの指が触れた箇所を伸ばすように撫でていると、少し心配そうにルカが小さな声で尋ねてきた。
「嫌なことでもあった?」
「……別に。あ、クローシェ様から伝言だ」
 ルカを促して歩きながらスケジュールの変更を伝えると、ルカは手を打って喜んでから、ふっと表情を変えた。
 背中で両手を組んでクロアを見上げてくるルカに無言で首を傾げる。と、にこりと笑った彼女が、悪戯っぽい声音で「もしかして」と告げた。
「クロア、それで機嫌悪いの?」
「……別に」
 なるべく平静を装って素っ気なく答えたつもりだったが、視界から外したところに居るはずのルカはクロアの鎧を引っ張って注意をひいた。
 仕方なくそちらを見やると、ルカはにっこりと笑う。
「お休みは嬉しいけど、私もクロアとゆっくりできないのは残念だな。今度のお休みは頑張ってフリーをもぎ取るから、二人でのんびりしようね」
 ごくごく小声で囁かれた内容だったが、クロアには十分聞き取れた。限りなくマイナスの方向へ傾きかけていた思考があっさりとフラットに戻るのを感じながら、クロアは小さく頷きを返した。

 

 -2-

 

 だがしかし、「今度のお休み」も二人きりで過ごすことは叶わなかった。
 いよいよ新大陸の開発計画が大詰めに入り、御子とその護衛が多忙の一途を極めた事もある。が、さすがに周囲も休息を強く進言しなんとか確保した休日に、クローシェが体調を崩した為、ルカはつきっきりで看病にあたったからである。
 仕方がないとクロアの理性は理解を示す。申し訳なさそうに両手を合わせて頭を下げた彼女に告げた通りに。
 あれほどルカが切望していた家族であり、彼女が自分の全てをなげうってまでずっと探し求めていたたった一人の妹を、ルカが愛し大切にするのは当たり前のことだ。ましてやその妹が苦しんでいるのに、放っておけるようなルカなら、最初から惹かれたりしなかっただろう。
 両親をI.P.D.の暴走事故で失い、孤独の中で途方に暮れていたクロアにさしのべられた暖かな小さなてのひら。それがルカだった。
 あれが、クロアが生まれて初めて覚えた『絶望』という感覚だった。望みを絶たれ、未来を絶たれ、ただ現実の中にうずくまるしかなかった彼に、ルカは笑顔で「今日からクロアも家族だね」と迎えてくれたのだ。
 その後、彼女を苦しめ続けてきたどんな現実も、追い詰められたルカ自身がはりめぐらせた笑顔の仮面も防壁も、彼女の本質をねじ曲げることはできなかった。クロアはそれを知っている。
 だから、それを踏み折りたくない。やっと何の憂いもなくほころんだ彼女の笑顔をそのままにしておきたい。彼女の優しさを独占したいなどと思ってはいけない。
 そうだ、これはただの欲なのだ。
 ルカと一緒にいたい、ルカを独占したい、自分だけを見ていて欲しい、できれば触れたいしとても口にできないようなことだってしてみたい。そんな、一度表出した日には制御不能に陥るだろう欲求をルカにぶつけたりできるはずもない。そんなみっともないことはしたくない。
 傷つけたくないとか、壊しそうで怖いとか、そんなのは多分言い訳だ。ここしばらくずっと胸に澱んでいるどろどろとしたものを、ルカに知られたくないのだ。
 ルカにがっかりされたくない。幻滅されたくない。だからそんな感情はなかったことにしてやり過ごしてきたはずだったのに。
 知らず握りしめていた拳をゆっくりと開いて、クロアは彼にあてがわれている宮殿の一角の小部屋の寝台に、体温が馴染むほど持っていたはずなのにちっとも頁が進んでいない本を放り投げた。
 たまに、夜眠る前に空いたほんのわずかな時間を縫ってためらいがちに訪ねてくるルカは、一つしかない椅子が小さくて固いと言って、寝台に腰掛ける。
 なんてことのない笑い話、ちょっとした相談、たまに弱音。その合間に見せる、全幅の信頼を込めた笑顔が見られるだけで少し前までは満足していたはずだったのだ。肩にもたせかけられる頭の重みや、重ねた小さなてのひらのぬくもりで十分だったのだ。
 そのはずだったのに、いつの間にか欲だけが一人歩きをはじめようとしている。
 しばらく天井をにらみ付けていたクロアは、立ち上がると騎士隊の服装に着替えた。訓練場に行って身体を動かして少し頭を冷やそうと、訓練用の槍を持って廊下に出る。
 久しぶりの休日を一人で過ごすことになったクロアの話を聞きつけたのか、訪ねてきてくれたタルガーナとも些細なことで口論になってしまった。
 原因もよく覚えていないほど、どうでもいいようなことだったのに。なんとか謝罪はしたものの、気まずいままタルガーナは部屋を出て行った。手合わせをしないかと誘いに来てくれたのだから、もしかしたらまだ訓練場にいるかもしれない。
 と、廊を進んでいたクロアの背に、聞き間違うはずもない声がかかった。
「クロア!」
 続いてぱたぱたとかけてくる軽い足音。わけもなく振り向くのに抵抗を覚え、そんな抵抗を覚えたことに嫌気が差し、とっさにクロアは顔から表情を消した。半歩だけ後ろに下がるようにして向き直る。追いついてきたルカの手には、タオルと砂糖菓子が抱えられていた。クローシェの為のものだろう。
 ルカが何かを言い出す前に、クロアは口を開く。
「……クローシェ様の具合はどうだ?」
「うん、だいぶ熱は引いてきた。無理しすぎなんだよね、だいたい。クロアも気をつけてね?」
 心配そうにのぞき込んでくるルカからさりげなく距離を取る為にはどうしたらいいだろうと考えてみたが、うまい方法が思いつかずにクロアは結局その場にとどまった。
「ルカもな。せっかくの休みなんだ、クローシェ様が眠られたら誰かに看病はまかせて、ルカも休まないと身体がもたない」
「大丈夫だよ。私は健康が取り柄だもの」
 そう言って明るく笑ったルカは、不意に表情を曇らせた。うつむいた彼女の眉尻が、すまなさそうに下がる。少しつついたら涙ぐみそうな瞳は、優しい大地の色だ。それが溌剌と輝いている様こそが、クロアの望む姿だ。だというのに。
 来る、と直感してクロアは身構えた。
「……ごめんね。次は、って言ってたのに……」
 しゅんとうなだれたルカの肩が、いつもより細く見える。それを認めた瞬間、何かのタガが外れた。
 ルカの肩を強引に引き寄せ、もう片方の手で廊を仕切る重い緞帳を翻させる。一気に暗くなった視界にもかかわらず、その影に押し込むようにした彼女を腕の中に収めた。
 持っていた訓練用の槍は緞帳にたてかけるようにして手放し、手加減を考えずにきつく抱き締める。
 がさり、と二人の間で何かが壊れるような物音がした。ルカが大事に抱えていた砂糖菓子だろうか。しかし菓子の運命など今のクロアにはどうでもよかった。
「く……クロ、ア?」
 戸惑ったように、くぐもった声が彼の名を呼ぶ。暗がりの中、微かに動いたそれを引き寄せて、慌てて制止の言葉を口にしようとした唇を強引に塞いだ。
「――ん、ちょ、クロ……っ」
 ルカがもがいたせいで外れた唇をもう一度重ね直す。柔らかい唇の隙間を舌で辿って割り入ると、抱きすくめた身体が一気に硬直した。
 次の瞬間、ルカが腕の中で精一杯腕を突っ張らせた。その衝撃で揺れた緞帳につられて、槍が倒れる。やけに響いた音に我に返り、クロアは一瞬動きを止めた。
 身をよじるようにしてルカがクロアの腕の中から逃げ出す。暗闇から抜け出た彼女は、耳まで赤く染め瞳を潤ませて立っていた。
 苦い想いがひたひたと足下から沸き上がってくるのを感じて、クロアはそこから一歩も動けなかった。
 やってしまった。こんな顔をさせたかったわけではないのに。キスそのものは初めてではないにしても、勢いにまかせて場所も選ばず、あんな強引なやり方で。
 ルカを正面から見ていられず、クロアは槍を拾い上げる為に視線を外した。
「――これで、俺もルカに謝らなきゃならない。だから、おあいこだ」
 とっさに出てきたのはそんな後付けの言い訳で、ますます嫌気がさす。
 しばらく何も言えずにずっとクロアを見つめていたルカが、怒ったような気配を隠そうともせずにぎゅっと荷物を抱きしめる。
「……どうして、クロアが謝るの?」
「一方的だろ、あんなのは。ごめん」
「違うよ!」
 涙声になった叫びに、クロアは顔を上げた。頬を紅潮させて、瞳を涙で濡らして、ルカが必死で何かを訴えようとしている。
 そんな場合ではないのに、そんな資格などないはずなのに、ルカの頬を濡らす涙を拭おうと手が伸びそうになった。
「そうじゃないでしょっ? そこじゃないでしょう! どうし――」
 と、唐突に響いた笑い声にルカがはっと言葉を飲み込んだ。ざわめきは次第に近くなってくる。
 目元を拳で拭ったルカは、挑むようにしてクロアをにらみ据えた。
「……今夜、クローシェ様が眠ったらクロアの所に行くから。絶対だから。逃げないでね」
 まるで果たし状でも叩きつけるような口調でそう言い残すと、ルカはその場から足早に去った。それを見送ってから、クロアもまた踵を返す。こんな気持ちのまま訓練に行ったところで、自分か組み手の相手を怪我させるだけだ。それだけの自制はかろうじて働いていた。
 そんな自分が滑稽に思えた。
「馬鹿か、俺は」
 妙に重い足を運びながら口の中で呟いた言葉は乾いていたが、妙に収まりが悪かった。しばらく考えて、自室に戻ったところで違和感の正体に気が付く。
 ――馬鹿だ、俺は。
 
 
 
-3-

 

 逃げないでね。
 そう差された釘がなければ、とっくに逃げ出していたかも知れないな、と考えながらクロアは、閉ざしていた瞼を持ち上げた。見上げた先にはそろそろ見慣れたはずの天井があるはずなのに、暗くてよく見えない。
 いつの間にか日が落ちていたのだろう。晴れていれば月明かりでもう少し明るいはずだがとぼんやり考えた時、水の流れる様な音に気づいて、彼は静かに納得した。外は雨が降っているらしい。
 眠るでもなくただ寝転がったままやり過ごしていた間に喉が渇いていた事に気づいて、水差しを手探りで探し当て中身を飲み干す。とてもそんな気分にならなかったので夕食は食べに行っていないが、空腹は感じていなかった。
 と、控えめなノックの音がした。短く連続して3回。
 いつもの、ルカの合図だ。
 身体を起こして、扉を開けに行く。鍵を開けてノブを引くと、サンドイッチの載った皿をもったルカが立っていた。
「クロアが、晩ご飯食べに来てないって。騎士さんが心配してたから」
「……そうか」
 差し出されたそれを受け取って、クロアは先に部屋に入った。灯りを点けて、サンドイッチの皿を小さな机の上に置く。
 と、雨音の隙間にかちりと聞き慣れた音を耳に拾ってクロアは顔を上げた。
 後ろ手に、扉の鍵をかけたルカがそこを塞ぐようにして立ちはだかっている。
「――ルカ」
 呼ぶ名に、咎めるような響きが混じる。
 鍵は、ルカがこの部屋に来ている時はいつもかけなかった。夜更けに御子が男と二人きりという外聞の悪さを気にしたこともあったが、半ば以上は自制のためだった。ルカには前者の説明を冗談交じりにしておいたから、鍵をかけない意味合いは知っているはずだというのに。
「逃げないで、って言ったよね、私。だから、私も逃げない」
 宣戦布告のようにそう言い切ったルカが、ゆっくりと近付いてくる。一歩一歩を確かめるように。
「タルガーナさんが言ってたよ。クロアの様子がおかしかったって。喧嘩しちゃったんだって?」
「……ああ」
 事実なので、彼は頷いた。情けなさにめまいがしそうになるのを、気力で踏みとどまる。
「あれは何か一人で抱え込んでる顔だって、タルガーナさん言ってた。実は、私もそう思う」
 狭い部屋なのが今だけは憎い。たったの数歩でクロアのすぐ正面まで来て、ルカが立ち止まる。逃げないで、そう念を押すように、力強い瞳が射るような強さで彼を見据えていた。
「私は、そんなクロアは嫌いだな」
 ゆっくりと動いた唇が紡いだ十分に衝撃的な言葉に、クロアは落胆より先に既視感を覚えてまばたきをした。三回目で、その正体に思い至る。
 他でもない、ルカのコスモスフィアで、彼がルカに告げた言葉だ。
「クロアは優しいよ。そんなこと、私が一番よく知ってる。だから全部抱え込んじゃうんだよね、勝手に一人で」
 ルカの声は震えもしない。けれど強くとがったものでもない。ただ真綿のように、立ちつくすしかないクロアを柔らかく縛り上げる。
「ね、前に言ってくれたよね? 辛いことでもなんでも、私がクロアに言えるようになればいいって思ってたって。お互い無理しないで、心の壁のない関係になりたいって。私、すっごく嬉しかったんだよ。なのに私、今、クロアに閉め出されちゃってる」
 何も言い返せずに、クロアはわずかに視線を逸らせた。と、間髪入れずに両の頬が勢いよくふたつのてのひらに挟み込まれて容赦なく元の位置に引き戻させる。
 さらに一歩踏み込んできていたルカが、至近距離で眦をつり上げていた。
「逸らさないで、ちゃんと私を見て! クロアは嘘つく時に目を逸らすんだ。それくらい知ってるよ」
 ルカの声が少し震えた。陽の光ではない、人工の明かりを映す瞳もわずかに揺れる。
 やめてくれ、と呻きそうになった。こんな情けない自分の為に泣いたりしないでくれと突き放したくなるが、なんとか飲み下す。さすがにそれは情けないを通り越して最低だ。
 が、ルカは容赦などしてくれなかった。ひたとクロアを見つめたまま、クロアの狡さを突きつけ続ける。
「私、コスモスフィアでいっぱいクロアに迷惑かけてきたはずだよね。無意識の中にある『私』がクロアに何をするかわからなくて、それでクロアに嫌われたらどうしようって、本当は怖くてたまらなかった。でも、クロアは私を完了してくれた、全部を受け止めてくれた。なのに私には、クロアの本当を見せてもくれないの?」
 細い腕が、クロアの背中に回る。柔らかな感触が、クロアの身体を包む。
「私だってクロアを知りたいよ。こうやってても全然足らないの。クロアの本当ごと抱きしめたいんだよ、わかってよ!」
 一応抑えた声量で、けれど痛いほどに真摯に訴えたルカの肩が、思い出したようにかすかに震えた。不安定に揺れた呼吸が、喉をこすって鳴くような音を立てる。
 雨音が響いているはずなのに、ルカの音だけがいやにはっきりと耳に届いた。
「私は、そんなに頼りないかな。クロアは、私を信じてくれないの……?」
 ルカの吐息、ルカの鼓動、ルカの声。柔らかなぬくもり、しがみつくように回された腕の強さ。
 ルカが身体全部を使って伝えようとしてくれているのに、この期に及んでもまだ逃げ続ける事など不可能だった。
 今必要なのは、情けなくて恥ずかしくてどうしようもないクロア・バーテルをルカに晒す覚悟だけだ。
 爪が食い込むほど握りしめていた拳を解く。と、つられるようにして固まっていた舌も動いた。
「……あんまりふがいなくて、殴りたくなるかもしれないぞ」
 そっとルカの肩に手を置く。細い肩は、クロアのてのひらですっぽり覆えてしまう。その手に、勢いよく頭を振ったルカの髪がくすぐるようにして触れた。
「愛想尽かすかもしれない」
 もう一度、首が横に振られる。けれどその顔は、クロアの胸に押しつけるように埋められたまま。
 もう片方の手を、ルカの背に添える。
「でも、俺はルカが好きだ」
 まだだ。まだ、抱きしめてはいけない。そう自身に言い聞かせるクロアの胸から、ルカが泣き笑いの顔を上げた。
「私なんか、クロアのこと大好きなんだから」
 そう断言して笑ったルカを、何も考えずに抱きしめた。力加減なんてしらない、ルカが苦しそうな息を漏らしても力を緩める気がおこらない。それは昼間と同じはずなのに、何かが決定的に違う。
 あれは、無理矢理ルカを腕の中に閉じこめただけだった。どこにもやり場のなかった、奥底に閉じこめていたはずの感情ともいえない癇癪を、ルカにぶつけただけだ。
 だけど、今は違う。
「ごめん、ごめんねクロア。私が甘えてたの。クロアが優しいから、クロアはずっと傍にいてくれるって勘違いしてたの。そんな絶対なんてないって知ってるのに、わかってたのに」
 とうとうしゃくりあげはじめたルカの背中を慰めるように撫で、そして良い匂いのする髪に口づける。額に、こめかみに、頬に。
「ルカは悪くない。俺が馬鹿だったんだ」
 こうしてルカを抱きしめてる今にして思えば、愚にも付かない思考をルカに正直に告白するのはためらわれたが、それでもクロアは意を決して口を開いた。
「……優しくなんかない。ルカをひとりじめしたいとか、こんな風にしたいとか、そんな事ばっかり考えてる俺をルカに知られたくなかったから、物わかりがいいフリをしてただけだ」
 と、ルカが腕の中で小さく吹き出した。クロアは苦い顔をする。
「ほら、やっぱり呆れただろ」
 多分先程とは違う意味で小さく揺れている肩を押さえつけるように抱きしめ直すと、くすくす笑いながらルカが「だって」と甘えるようにクロアの肩に頬をすり寄せた。
「そんなの、普通だよ。世間一般の恋人同士なら駆け引きの材料になっちゃうくらい、当たり前のことみたいだよ」
 泣いたせいか少し涸れた声で、ルカはそう言って笑った。クロアの好きな、彼が護り続けたいと願っている、安心したような少し肩の力が抜けた笑い方で。
「ついでに、それくらい私も思ってるよ。クロアをひとりじめしたい、クロアにぎゅってしてほしい、って」
 それだけですまない自信があるんだが、と内心ごちるクロアに構わず、ずっと彼の背中に回っていた指がシャツを強く握りしめたのを感じる。
「……だから、昼間のも……その、もうちょっと優しく、やり直して欲しいな」
 とんでもない要求にクロアの思考回路は一瞬焼き切れかけたが、なんとか傾ぎかけていた体勢を立て直す。
 その頃には既にルカは少しだけ顔を上げて、まっすぐにクロアを見上げていた。
 かわいいルカ。大切なルカ。
 あの日暗闇からすくい上げてくれた笑顔を、幼い頃から宝物のように思っていた。その彼女に、身勝手な欲を押しつけることがひどい罪悪の様にも思えていた。
 だけど、それでもいいとルカが言うなら。そう思ってくれているのなら、きっとルカに触れても彼女を穢したことにはならない。
「部屋に帰せなくなっても知らないぞ」
 ルカの肩に回していた手を離して、柔らかな頬に添える。一瞬目を見張ったルカは、ちょっと考えるように視線を泳がせてから、軽く首を傾げた。
「……レイカちゃん熟睡してるし、多分……ちょっとくらいなら、っていうかええとそのいやあれ何言ってるんだろうね私ゴメンちょっと今のナシで!」
「――爆弾発言しておいて、途中で一気に照れるのは遠慮してくれ。色々と困る」
 頼むから、と続けて、まだ慌てふためいているルカの頬を引き寄せる。
 初めてしたキスの時より遙かに緊張していることに気づいて笑い出しそうになりながら、クロアは長いまつげを伏せた彼女の柔らかな唇に彼の唇を重ねた。

 

―了―