ちかいごと
◆ 3 ◆
そわそわと、ニックは白い扉の前をうろつき回っていた。
ようやっと落ち着いたし、一度バニーバロウに戻ると旅支度を終えたボニーが片目をつぶって教えてくれたのだ。午後の回診が終わったら、ジュディと面会できるようになるのだと。
ジュディが意識を取り戻したのは、撃たれた翌朝の事だった。医師が心配していた合併症のたぐいも幸いにして引き起こさなかったが、容態が安定するまでにさらに四日かかった。
ICUを出られた日。移動の際、偶然目を覚ましてガラス越しにこちらを見やったジュディは、力なく微笑んでみせた。唇がゆっくりと動くのを、自慢の目に過剰なまでの力をこめて見守った。
ニック。ごめんね。だいじょうぶよ。
わかっていると大きく頷いてみせながら、ニックは、今なら世界中の神様に喜んでキスして回れると心底から思った。長らく忘れていた祈りの言葉さえ口をついた。
ただ、それから三日が経っても、面会謝絶は解けなかった。ボニーとジュディの姉は、面会出来るたびにニックのメッセンジャーを務めてくれた。謝るのは俺の方だ。犯人はちゃんと逮捕されて取調中だ。みんな心配しているから早く良くなれ。フルー・フルーはICUの壁に張り付いて号泣していた。ミスター・ビッグも涙ぐんでいたぞ。そんなふうに、短い言葉を。
一番言いたい言葉は、自分の口からと決めていた。そして今日、やっと面会謝絶が解けるとボニーから電話での連絡があった。有給休暇届を署長の机にたたき付けたニックは、取り急ぎ病院へ駆けつけたのだ。
すっかり顔なじみになってしまった医師と看護師が病室から出てきて、ニックを見るなり苦笑した。
「お待たせしました、どうぞ。ただし、三十分だけですよ」
「ありがとうございます」
面会謝絶のプレートを扉から取り外した看護師に頭を下げて、ニックはドアをノックした。
「入るぞ?」
個室だと知っているので、遠慮なく足を踏み入れようとして、ニックは躊躇した。寝起きのジュディは時々機嫌が悪い。毛が跳ねてるとかそんな理由でだ。
「ニック? どうぞ」
まだ若干弱々しいながらも、聞き慣れた声に呼ばれて、ニックは眉間に力を入れた。まだ顔も見てないのに泣きながら登場とか、そんなのはあんまりだ。
深呼吸をして落ち着いてから、なるべくさりげなくベッドの方へ顔を出す。横になったままのジュディが、笑いかけてから顔をしかめた。傷に響くのだろう。
ばかだなぁ、と思いながらも声にならない。黙ったままベッドの傍に歩み寄って、シーツの上に垂れている耳を、頭を、頬を撫でる。
温かい。足の爪先からこみ上げるようなため息が漏れた。
「ニック――ごめんなさい、心配した? よね……」
つい身体が動いちゃって、あなたそういうの嫌いなのに、とジュディが引っ張りあげた布団で口元を覆った。隠れてるつもりだろうか。ブルーベリー色の瞳が、ニックの機嫌をうかがうように上目遣いに向けられている。
ばかだなぁ、とニックは笑った。痛かったのは君だろう。なんで俺の方を気遣ってんだ。
点滴が刺さっていない方の腕を慰めるように撫でて、小さな手をそっと持ち上げた。
いつかの帰り道みたいに手の中に収めるだけの力ではなく、強く握る。息を吸う。一番に告げたい言葉はとっくに決まっていた。
「結婚しよう、ジュディ」
ジュディの瞳がまんまるに見開かれた。
「――は?」
なんとも色気のない返答にかまわず、ニックは続ける。
「結婚しよう。俺と結婚して、ジュディ・ワイルドになるか、俺がニコラス・ホップスになるか、それとも別姓で通すか、選んでくれ」
「え、何? どうかしたの、なんか変なものでも食べたの、ニック?」
「別にどうもしてない。君が怪我してから酒も飲んでない。頼むから頷いてくれ」
身動きのとれないジュディは、ニックに手を握られたままぐるぐると瞳を回した。現状を確認するかのように病室を一周させてから、彼女は呆然と呟く。
「私、まだ意識がもうろうとしてるのかしら……」
ニックはベッドの横の計器類に目をやった。数値類をざっとチェックする。この数日で正常値にはずいぶんと詳しくなった。
「君のバイタルは正常だ、安心しろ。そして俺も正気だ」
「ちょっと待って、ニック。ねえ、あの、心配かけたのは悪かったけど」
「君がイエスと言ってくれるなら、これから書類をもらってくる。ご両親に挨拶が必要なら、何があろうと有給休暇をもぎ取ってバニーバロウへ行ってくる。だから結婚してくれ。式は後回しになるが、全て君の希望通りでかまわない。新居も君の希望に添う。だから」
「待ってニック、落ち着いて!?」
とうとう悲鳴じみた声を上げるジュディに、「君こそ落ち着け、傷に響く」とニックは握りしめた手の上からぽんぽんと叩いてやった。落ち込んだ時、泣いている時、腕の中の彼女の背をそうしてやるように。
「俺は落ち着いてる。あの忌々しいプレートが俺を閉め出してる間、ずっと考えてた。君に会えるようになったら、絶対にうんと言ってもらおうと」
驚きだけだったジュディの表情に困惑が混じった。それが心配に傾いていく。もしかして自分はよっぽどひどい顔になっているのだろうか。危ぶみながらも、ニックはジュディを見つめることしか出来ない。
「……ニック……?」
真意を探る時の目で、ジュディが囁く。囁いてくれる。
どれだけこの声を聞きたかっただろう。どれだけこの瞳に見つめられたかっただろう。
笑みを湛えて見守る先で、ジュディはしばらく迷うような素振りを見せた。しばらく口を開いたり閉じたりした末に「ねえ、ニック?」と、問いかけてくる。
「あの、どうして、それを、今? もしも私の怪我に責任を感じてるなら」
「違う、それは絶対に。バッジに誓っても良い」
ニックは明確に断じた。そんな負担を彼女に押しつけたいわけではない。これは、ただのニックの我が儘だ。彼女にしか叶えることのできない、ニックの我が儘だ。
ジュディの手を握り直しながら、彼は胸の奥から絞り出した。
「家族じゃないと、眠っている君の手を握ることもできなかったんだ、ジュディ」
ジュディが息を呑む。
「あんなの、二度とごめんだ」
笑ったつもりだった。なのに、目と鼻の奥が熱くなる。握られたままのジュディの手が動いて、ニックの目元を拭ってくれた。困ったように首をかしげながら。
心地よくもくすぐったい沈黙を誤魔化そうと、軽く咳払いをしてから、握った手を引き寄せて口づける。
「君だってとっくに知ってるだろう、俺は君が好きだ。自分でもどうにもならないくらいに愛してる。君が俺に相棒になって欲しいと言ってくれたあの瞬間から、少しずつ、ずっとだ」
ぱちくりと瞬いてから、ジュディは枕の上で小さく首を振った。
「そこまでは知らなかったわ。好きでいてくれるとは思ってたけど」
「そうか、じゃあこれから知っておいてくれ」
顔をしかめたジュディの考えてることなど、手に取るように分かる。なんかもうちょっとこう、ムードとか段階とか手順とか。そんな風に思っているのだろう。
ニックもそれは考えた。ジュディが憧れているような、恋物語のヒロインに王子様がするようなプロポーズだって、彼女が望むならやっても良かった。だけど、それには時間がかかりすぎる。
「誓いの言葉ってやつは良く出来てる。俺は君が病める時も健やかなる時も、君の側にいたい。君に何かあったときは誰よりも真っ先に、君の側に駆けつけたい。その権利を俺に与えてくれないか、ジュディ」
矢継ぎ早に畳みかけるニックを、彼女はずっと見上げていた。真剣に聞いてくれた。その上で、彼女は困惑の吐息をつく。
「……考えさせて、ニック。嬉しいわ、嬉しいけど……少し、考えさせて」
「もちろん、君が考えたいならそうしてくれ。でもなるべく早くに返事が欲しい。君のパパに頭を下げに行く日程を決めなきゃならないからな」
「どうしてOKが前提なのよ」
「君がOKしてくれるまで説得し続けるからさ」
片目を瞑ってみせると、ジュディが小さく息だけで笑った。
「ばかね」
「ああ、俺もここまで君ばかだとは気づいてなかったよ、ジュディ。三十分って看護師さんと約束したからな、今日は帰る。いつでも書けるように申請書はゲットしてくるけど、他に何か欲しいものはあるか?」
ばかね、ともう一度笑ってから、ジュディは「私のにんじんクッション持ってきて。明後日まで点滴だけなんですって」と悲しげに呟いた。
良いから早く行ってこい今度なんか奢れ、と気の良い同僚達が仕事を引き受けてくれるのに敬礼を返して、終業するや否やニックは病院へと向かった。彼女が仮眠室用に常備しているにんじんクッションと、昼休みの間にもらってきた未記入の書類を抱えて急ぐ。予備を含めて三枚、折れないようにファイルに入れてある。
今日も面会時間は三十分だろうか。ニックはエレベーターの速度が遅すぎると内心で文句をつけながら、壁に貼ってある案内を眺めた。どのみち、面会可能時間が終わるまでは一時間しかない。本当なら二十四時間ずっと傍についていたいくらいなのに。
すっかり慣れた廊下を進み、彼女の名前がささっているネームプレートのドアをノックする。返事がない。
「ジュディ?」
寝ているのだろうか、と、遠慮しながらゆっくり扉を開く。白い部屋の中のベッドは空っぽだった。ぎくりと心臓が強張る。
何かあったのか。容態が急変でもしたのか。それとも。
「あら。ニック?」
背後からかかった声に、ニックは身体ごと振り向いた。看護師さんが押す車いすに乗ったジュディがそこにいた。
「早かったのね、終業から十分経ってないわよ?」
「ダッシュで来たからな……。検査かなんかだったのか?」
脱力しながら、傍らのスツールに腰を下ろす。看護師さんに手伝ってもらってベッドに横たわったジュディは、えへへ、と自分の頬を手で撫でた。昨日より顔色も元気も良さそうだ。
「顔と手足だけ洗ってもらえたの。お風呂に早く入りたいわ」
「そうだな、ニンジンの共食いも早く出来るようになれ」
「……昨日はジュディって呼びまくってたくせに」
ふたりのやりとりを笑いながら看護師さんが退室すると、ジュディはふいとそっぽを向いた。その頬がほんのりと赤い。
「夜、思い出しちゃって大変だったんだから」
拗ねた口ぶりの文句に、ニックは頬がゆるむのを押さえられなかった。袋から取り出したにんじんクッションを彼女の方へと差し出し、額に軽く口づける。
「君が望むならいくらでも呼ぶぞ。……ジュディ」
ぎくり、と小さな肩が跳ねた。まだ寝返りが打てないので、そっぽを向くのが関の山の彼女の頬を撫で、耳を撫でる。怒られないのを良いことに、耳の付け根をくすぐる。
昨日と違ってふわふわした手触りになっていたが、匂いに違和感があった。どうにも薬臭いのだと気づいて、ニックはふむと思案する。
「俺んちのボディソープ持ってきてやろうか?」
黙ってニックのなすがままになっていたジュディが、長い睫を瞬かせた。
「どうしてニックのを?」
「その方が俺が嬉しいから。君が俺と同じ匂いになるの、わりと楽しみだったからな」
ジュディはとうとう両手で顔を覆った。ううううう、と低く唸った彼女が嘆く。
「……ニックがニックじゃない……」
「失礼だな、本気を出すことにしただけだぜ。言っておくが、これでも君が逃げ出さない程度にかなり手控えてるからな」
「お願い元に戻ってニック、恥ずかしくて死んじゃう」
「君が俺のプロポーズに『うん』と言ってくれたら、もう少しだけ前みたいに戻そう」
「もう少しだけなの!?」
勘弁してちょうだい、と半ば泣き声で懇願するジュディが可愛いので、さらにからかいたくなったが、堪えた。面会時間は限られているのだ。
ジュディの顔を隠している両手を優しく外しながら、ニックは笑う。
「仕方ないだろ。君が言ったんだぞ、『好きなひとに好きだと言えなくなるのは悲しい』って。言えなくなるかと思ったんだからな」
じっと見つめるニックを見返して、ジュディが困ったように小さく首を振った。
「大げさね」
大げさなもんか。肩をすくめて、ニックは彼女の手を布団の上に置いた。
「何とでも言ってくれ。君は俺を八歳も上の世慣れた口八丁手八丁の元詐欺師だと思ってるんだろうが、一皮剥いたらこんなもんだ」
「あなたがとても慎重で臆病だってことくらいは知ってるわよ」
「その情報に、何がなんでも君と結婚しようとしてるって付け加えといてくれ」
書類の入っているファイルを取り出すニックを見つめ、ジュディは言う。
「臆病だから?」
「そうだな」
頷いて、ニックはファイルをサイドテーブルに載せた。昨日のように彼女の手をとって、そっと撫でる。
「俺は臆病だから現状維持を望んでいた。臆病だから、誰よりも君の側に居られる権利が欲しいと思ってる」
「ねえ、ニック。どうして私が許すばっかりなの? 私はあなたのママじゃないわよ、私があなたにしてあげるばかりなの?」
またもそっぽを向いて膨れるジュディに、ニックは何を言っているのかと目を丸くしてみせた。
「だって君は俺が好きだろう。すごく、とっても」
「うっわ、腹が立つわねもう。その通りなのをやめたくなるわ」
「やめないでくれ、頼むから。そしてイエスと言ってくれ。俺が君に求めてることは、君も俺に望んでると言ってくれ、ジュディ」
ジュディは窓の方を見たままだった。ただし、ふくれつらは解けていた。
窓の外には夕日が沈んだズートピアの夜景が広がっている。星の少ない眩しい街並みを瞳に映しながら、ジュディは静かに口を開いた。
「――あなたに何かあったときには、私が真っ先に駆けつけても良いのね?」
「もちろんだ」
力強く同意をかえすと、ジュディは上目づかいにニックを見上げた。
「あなたが危なかったらかばっても良いのね?」
「それに関してはいいか、次は一緒に避けてみせるからな。訓練するぞ」
どんな訓練よ、とジュディは目だけで微笑んだ。ニックが握りしめているのと反対側の手を持ち上げて、そっとニックの頬を撫でる。
「喜びの時も悲しみの時も、あなたの側に居ても良い?」
「当たり前だ。居てくれなきゃ困る」
ジュディはそこで一度口をつぐんだ。どうしたのかとニックが身を乗り出してのぞき込むと、ブルーベリーの瞳がみるみる涙に濡れていく。
「……私は、あなたを好きでいて、良いのね?」
「ジュディ、ジュディ。今更君にそれを確認させてる俺を殴って良いから、是非そうしてくれ」
もちろん殴るのは元気になってからだ。そう囁いて、ニックは彼女の鼻先に自分の鼻先を寄せた。零れる涙を舌で優しく舐め取って、頬ずりをする。
力いっぱい抱きしめたかったが、それは彼女が退院してからだ。早く治ってくれよと願いながら、ニックはジュディの瞳を覗き込んだ。
「さあ、イエスを聞かせてくれるだろ、ジュディ?」
「あなたと結婚するか、ですって? ええ、もちろん、喜んでよ、ニック」
ニックの好きなおひさまみたいな笑顔のジュディの唇に触れるだけのキスを落とす。くすぐったいと笑われたニックは、それだけでは我慢できずにぺろりと小さな唇を舐めたため、素っ頓狂な悲鳴を上げられる羽目になった。